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三河地震の記憶から防災へ

はじめに

 昭和20年1月13日午前3時38分、愛知県三河地方をマグニチュード6.8の地震が襲った。この地震は三河地震と呼ばれ、現在の安城市や西尾市を中心に死者2,300人を超える大被害が発生した。しかし、戦時報道管制のため、被害状況や、援助のあり方、震災からの復興の様子にはいまだ不明な点が多い。また、フイルム不足や自由な報道が規制されたという時代背景もあって、被災写真がほとんど残っておらず、現在残されている写真だけからではこの地震による災害の全貌を知ることは不可能である。
 我々は2003年から三河地震の被災者へのインタビュー調査を開始し、その調査で得られた被災体験を文章で残すのみならず、絵で再現するという新しい試みを行っている。文字による被災記録は正確な記録が可能であり欠くことはできないが、災害に興味のある人以外に読んでもらうことは難しい。多くの一般の人に、地域の過去の災害の様子を伝えるきっかけとなる「何か」が必要であるが、不幸にも写真は残っていない。
 そこで我々は、地震・被害発生の瞬間や避難生活、復興の様子を絵にすることで、貴重な被災体験をわかりやすく伝えることができると考えた。三河地震から60年がたち、被災者は皆、高齢である。その貴重な体験は、地域社会にはほとんど受け継がれていない。地震の活動期に入ったと言われる現在、これからの社会の中心になる子どもたちが地元の地震災害を知り、次の地震に備えるきっかけになることを、この震災を絵にする試みは強く意識している。

被災体験の絵画化

 実際の絵の作成は日本画家で、愛知県立芸術大学美術学部日本画専攻の非常勤講師でもある阪野智啓(ばんの・ともひろ)氏と藤田哲也(ふじた・てつや)氏という2人の方と、防災心理学が専門の名古屋大学大学院環境学研究科助手の木村玲欧氏、そして地震学を専門とする私という4名が協力して進めている。画家の二人は院展に入選し、画廊におけるグループ展なども開催している注目の若手画家である。そして創作活動のみならず、郷土史や災害、そして人間の行動にも非常に深い興味を持っている、余人にかえがたい存在である。
 作画にあたっては、画家の方にもインタビューに必ず参加してもらっている(写真)。生の声を聞き、被災者の人となりを感じることによって被災体験のイメージを共有するためである。そして話を伺っている方の記憶がはっきりしていて、印象深い事柄で、かつ後世への教訓として適切だと思われる被害のようす、災害時の対応行動・生活再建のようす、支援のようすについて5~7点程度を選び出してアクリル水彩絵具を用いた絵画を作成する。特に絵の題材を選ぶ際には、一人の人間にスポットライトをあて、その被災から復興までを追えるように配慮している。また作成した絵は必ずインタビューした人自身に見てもらい、記憶していることと絵との差異について指摘をもらっている。修正の必要が生じた場合は持ち帰って修正を行い、絵の完成度を高めている。このように再調査することで、更に詳しい体験談が得られることも多い。
  • インタビューの様子

インタビューで得られた体験談

 安城市在住で当時の碧海郡桜井村藤井集落で被災した富田達躬(とみた・たつみ)さんは昭和3年生まれ。当時16歳の旧制中学生徒だった。三河地震発生時には、勉強部屋として使っていた茶室で寝ていた。地震で目が覚め、スタンドをつけようと手を伸ばしたら天井に辛が届いた。茶室が松の木にもたれかかったため命が助かった。しかし母屋に寝ていた家族のうち、妹とおばあさんは梁の下敷きになって亡くなった。隣の家では火災があって下敷きになった女学生が助けを求めていたが、みんな自分の家のことで精一杯で誰も助けることができなかった。この地方は養蚕業が盛んな地域であったため、建物内の風通しをよくするために壁を少なくしていた影響か、ほとんどの家が全壊した。母屋の撤去などの後かたづけには、地震の被害に遭わなかった親戚が頼りになった。また、在郷軍人のような人が集まって手弁当で手伝いに来てくれた。家が全壊したにもかかわらず、行政からは、地主であるということで缶詰を1個もらっただけだった。ただ、工作隊という組織が編成されて、山から木を切り出したり廃材を利用したりして、皆で協力して16坪の家を順々に作っていった。戦後は、それまでの養蚕業には見切りをつけて、外貨が稼げる製茶業を始めた。軌道に乗るまで数年かかり、それまでは役場に勤めたりした。
  • 作成した絵画の例


 鈴木敏枝(すずき・としえ)さん・沓名美代(くつな・みよ)さん姉妹は、昭和4年・昭和8年生まれで、当時15歳と11歳であった。被害が大きかった集落の一つである、明治村和泉集落(現、安城市)で被災した。三河地震で家は全壊したが、家族に死者はでなかった。近所の家もほとんど全壊し、死者がでた家もあった。壁土のほこりとにおい、「助けて、助けて」と生き埋めになった人の声が60年たった今でも鮮明に記憶に残っている。地震後数週間は、寒空の下、着のみ着のまま素手・裸足のままで家のかたづけを一日中していた。どの家も被害が大きく、自分のことで精一杯で助けてくれる人はいなかった。壊れた木材は煮炊き用の燃料として使い、壊れた瓦は道路の地割れの中に捨てた。煮炊きは数家族が一緒になって行った。煮炊きのスペースは露天だったが、農家のため食塩はあり、井戸水のため水の不自由もなかった。また地震で死んだ牛を食べることもできたことも強く印象に残っている。小学校は1ケ月ほどして再開した。校舎が全壊したため、工事中の公道を縄で区切り、その区画ごとに各学年が分かれて入って授業を受けた。しばらくして竹とわらで仮の家を作り、工作隊が家を建ててくれるまではそこに住んでいた。粗末な仮の家とはいえ,雨露をしのぐことができるところに久々に移れるため、とてもうれしかった記憶がある。

今後の展開

 2006年11月までに20件のインタビューが完了しており、現在も継続してインタビューを実施している。完成した絵も120枚を超える。絵は耐久性のあるパネルにして、その絵にまつわる体験談を短いフレーズの文章にして付記している。これらのパネルは希望者への貸し出しも行っている。 震災の絵を使った防災力向上のための活動も展開している。2005年11月には愛知県安城市において被災者とのインタビューを盛り込んだ新しいタイプの防災講演会を同市防災室と協力して開催した(写真3)。また、同月には、蒲郡市立形原中学校の文化祭で行われた絵画パネルの展示を中心とした地震展の実施に協力した。さらに、同年12月には、愛知県幸田町と協力して「文化振興展 深溝断層一三河地震の遺した爪痕-」を同町の図書館ギャラリーで開催した。
  • 被災者との対談形式講演会

 これまでの調査では、安城市歴史博物館などから、多くの資料や助言をいただいており、この調査研究を進めるには地元の協力が必要不可欠であることを強く認識している。今後とも地域社会と共同して調査を実施して、古くて新しい事実や教訓を掘り起こすとともに、その成果を迅速に地元で共有できるような教材の開発も推進したいと考えている。