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ミュージアム展示における「負の記憶」の表現と伝達について

はじめに ― 成田での経験から

 私は、2006年、千葉県成田市に存在する「歴史伝承委員会」で成田空港問題の歴史に関する展示プロジェクトに関わる機会を得た。この組織は1997年に、成田空港問題シンポジウム・円卓会議においてあきらかになった地域と空港の共生の課題を踏まえてできた組織である。設立の主旨は成田空港問題について、その発生から現在に至る全過程を正確に伝えることを任務とし、そのために、この地域の風土や歴史をも含め、成田空港問題の背景である戦後開拓や古い村々の習慣などに関わるできうる限りの資料を収集することである。  私が関わり得た展示は2006年11月に実施された「土・くらし・空港-『成田』の40年の軌跡 1966-2006」と題するものであった(「歴史伝承委員会だより」第5号)。この展示では「負の記憶」と地域の関係について考えさせられた。成田空港周辺の地域には、多くの「負の記憶」が存在しているといえる。たとえばそれに関して死者の発生した出来事である1971年の空港予定地の第一次、第二次強制代執行とそれにともなって3人の警官が死亡した東峰事件などが挙げられる。警官の死は社会に大きな波紋を広げた。またこの事件では地域の多くの人々が逮捕され、その渦中で縊死により自殺した22歳の青年行動隊員三ノ宮文男さんの死は地域の人々に多くの人に衝撃を与えた。その死は、反対同盟の人々や支援者の心にのしかかり続けたという。当時反対同盟事務局長だった石毛博道氏はそれを「キツネ憑き」と表現し、約15年後の1986年に出された東峰事件の判決によってその「キツネ憑き」の状態からやっと脱したという(
  • 注1
    →朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで 元反対同盟事務局長石毛博道成田を語る』四谷ラウンド、1998年。
)。逆に言うと、これはそれまでは、「負の記憶」が地域を覆っていたと表現しうる状況であったといえる。時間の経過や裁判の終結によって、「負の記憶」のあり方が変容してきたといえる。そして、1991年からの成田空港問題円卓会議とシンポジウム、またその流れを受けた「歴史伝承部会」による歴史としての空港問題に関する出来事の伝承という段階に移行しているといえる。  今回の展示では1週間で3千人以上が来場した。会場で人々が集中して展示を見ていた様子からは、地域において「負の記憶」の伝承のあり方や表現のあり方に真剣な模索が続いていることが伺われた。「負の出来事」を経験した共同体にとって、それに関する「負の記憶」を適切に記憶することが大きな必要性をもって存在していることがこの経験から理解された。
  • 「土・くらし・空港」
    展示ポスター

災害に関するミュージアムの日本と外国における存在

 さて、自然災害を中心的な展示の主題とするミュージアムとして、日本には、火山では三松正夫記念館(北海道、1977(昭和52)-82(昭和57)年の有珠山噴火に関する展示)、虻田町立火山科学館(同上)、磐梯山噴火記念館(福島県、1888(明治21)年の磐梯山噴火に関する展示)、浅間山火山博物館(群馬県、1783(天明3)年の天明噴火を中心とする浅間山噴火に関する展示)、伊豆大島火山博物館(伊豆大島、1986(昭和61)年の伊豆大島噴火を中心とする展示)、立山カルデラ砂防博物館(富山県、1852(安政5)年の山体崩壊を中心とする展示)、雲仙岳災害記念館(長崎県、1990(平成2)代の雲仙普賢岳噴火を中心とする展示)が、また地震に関しては震災復興記念館(東京都、1923(大正12)年の関東大震災に関する展示)、阪神・淡路大震災記念人と防災未来センター(兵庫県、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災に関する展示)などが存在する。設立年代は、震災復興記念館の1931(昭和6)年と人と防災未来センターの2002(平成13)年の二者の年代の間に71年の間隔が存在する。これらのミュージアムが建設された時代はおおきく「近代」に包含されるといえる。「前近代」には自然災害に関するミュージアムは日本では設立は確認されていないといえる。
 本共同研究「災害に関する人類学」の共同研究会においては、2004年12月26日に発生したインド洋大津波の被害を受けた地域のアチェやスリランカにおいてミュージアムの建設が構想されたり、実際に建設されたりしている事実が、山本博之氏、西芳美氏、澁谷利雄氏らによって報告されている。アチェやスリランカは日本と同じように、ミュージアムという制度をヨーロッパから輸入した、あるいは輸入しつつある国家あるいは社会であるといえる。このインド洋津波以前の自然災害に関するミュージアムは、おそらくそれらの国家あるいは社会には存在しなかったと考えられるが、今回の津波に関しては自然災害を主題としたミュージアムの建設の動きが存在することは興味深い。それは、日本においては20世紀初頭からすでに建設が開始されていた自然災害を主題としたミュージアムを、それらの国家ないしは社会が21世紀初頭になってようやく建設し始め得たと評価できる。それらの国家ないしは社会が属する地域が発展・開発途上国と位置付けられ、より先を進む先進国へと至る経済発展ないし歴史発展の階梯を上昇中であるという発展段階論に依る社会学的経済学的見地によれば、そのように評価することも可能ではあろう。他方、共時的な社会経済関係を重視する世界システム論的な視点に立てば、それらの国家ないし社会は、低開発国、ないし第三世界と位置付けられ、中心国からの影響、とりわけそれらの国を低開発に滞留せしめるマイナスの影響を強く被っている、ないし歴史的に被ってきたと評価できる。報告では、それらのミュージアムの建設が、国際的、とりわけ欧米からの援助資金や援助体制に対するディスプレイ効果を持つことが示唆されていたが、それはそれらのミュージアムが、実際に被災を受けた地域共同体における「負の記憶」の継承という機能よりもむしろ、膨大な復興資金を投下した主にはヨーロッパを中心とする先進ないしは中心国の援助機関の構成員ないしはツーリストへのアピールの機能に大きな力を注いでいることを伺わせる。ここには「負の記憶」を継承する際に、その共同体をとりまく社会的状況が反映されることが示されている。

メモリアルする事に対する問題点 ―「阪神大震災記念 人と防災未来センター」をめぐって

 ここで「負の記憶」に関する問題の中で、それをメモリアルする事に伴う問題点について、1995年に起きた阪神大震災の記念施設を例にとって検討してみたい(
  • 注2
    →本稿は2006年11月の報告を活字化したものであるが、その後、人と防災未来センターの展示はリニューアルが行われているため、本稿の記述内容と現在の展示内容では異同が生じている可能性があることをお断りしておきたい。
)。取り上げる施設は2002年に開館した「阪神大震災記念 人と防災未来センター」である。この施設は阪神大震災を中心的な展示対象とする博物館である。また同時に防災研究者が研究を行う研究所であり、さらに震災一次資料を多数収集保存する資料保存期間でもある。その展示の設計と施工は博物館展示に実績を持つトータルメディアプランによるものである。展示では、まず見学者はエレベーターで4階に存在する「1・17シアター」に導かれることになる。そこでは、特殊技術を駆使した映像や音響効果によって生々しく当時の被災の瞬間が描かれる。つづいて、そこからエスカレーターで3階に向かって下ってゆく。展示では災害の状況と復興の状況が展示され、最後に防災教育のコーナーがあり防災に関する知識が見学者に与えられる。  この展示には開館前と開館後に批判が存在している。その批判の論点の一つは、同館の展示のあり方が、震災をメモリアルするのにふさわしいか否かである。この施設は、開館以前は「阪神大震災メモリアルセンター」という仮称であり、開館後も施設名に「阪神大震災記念 人と防災未来センター」というように阪神大震災をメモリアル(記念)する施設である旨の表示がなされている。防災センターという機能が存在し、その機能は優れたものであるが、一方、メモリアルの機能に関しては、不十分なものであるという論調が存在する。たとえば、大門正克は次のように述べている。
 入館後、エレベーターで誘導された4階の「1・17シアター」の衝撃は、いまでも私のからだに残っている。壁一面に映し出された映像に大きな音が加わり、見学者には鋭いライトが容赦なく向けられる。よくわからないうちに映像が始まり、映像と音と光の中に自分のからだがさらされているという感覚、これを暴力といわずに何といったらいいのだろう。
 いいようのない重苦しい感覚が残ったまま、私はその後の模型展示や震災ホールでのドキュメンタリーに身を委ね、3階の展示コーナーをたどった。疲れたからだを休めようとして座る場所を探したが、なかなか見つからない。そうこうしているうちに、階の移動は下りのエスカレーターしかなく、元の階にはもどれないことにはじめて気づく。文字通りのエスカレーター式の展示方式! 要するにここには震災について考える時間や空間が保障されていないのだ。(
  • 注3
    →大門正克「バーコードに閉じこめられた言葉」『瓦版なまず』13、2002年7月。
 「負の記憶」のようなデリケートな問題をメモリアルする際にはそれにみあったデリケートな方法が必要とされると思われるが、ここでは、この展示施設においてそのような配慮がなされていないことが指摘されている。「負の記憶」をメモリアルする際の困難さがここからうかがえるといえる。  また笠原一人は次のように述べている。
 「メモリアルセンター」は様々な機能が集中した「前向き」なものであることを特徴としている。震災の一次資料を網羅的に収集し、震災のすべてを検証し、後世に役立てようとする姿勢には、出来事の表象不可能性や共有不可能性へのとまどいは微塵も感じられない。それは、体験「そのもの」やその全体を伝えることが原理的に不可能であるということを無視して、それらを把握し得るような超越的な視点を安易に形成しようとすることに他ならない。(
  • 注4
    →笠原一人「震災メモリアル施設は分散化されなければならない」『瓦版なまず』10、2001年9月。
 「防災」は災害を「予期」するものであり、我々の生活を守るために必要不可欠のものである。しかし、あの震災を「防災」の視点から語ってしまうや否や、震災は「防災」の“ための”出来事としてしか扱われなくなり、単なる「教訓」となってしまう。「ヒトボウ(人と防災未来センターのこと・引用者注)」は震災の記憶を宿す多数の震災一次資料を所蔵しているが、その展示は、実際に「教訓」としての意味しか持たされていない。(中略)また「ヒトボウ」では震災のリアルな「再現」映像が話題を呼んでいるが、それはやはり「教訓」としての震災の悲惨なイメージだけを与えるものとなっている。(
  • 注5
    →笠原一人「痕跡論」『瓦版なまず』13号、2002年7月。
 これは、「震災の記憶」が「防災」に一元化されることに対する批判であるといえる。本来は多様なものである現実が「防災」という一元的な語りによってメモリアルされていることに対する批判であるといえる。「記憶」がメモリアルされる際には、どのような文脈で、どのように表現されるかが問題となってくることがこの事例からはうかがえる。
  • 人と防災未来センター

どのように記憶は表現されるか ― 「いつかの、だれかに」展での例

 上記のような批判に対応して、それをふまえた震災の記憶の仕方を試みた展示を行ったので、ここでは、それを紹介したい。それは、2005年1月に神戸の CAP HOUSE で開催された「いつかの、だれかに」展([記憶・歴史・表現]フォーラム主催)である。ここで、筆者は、蘇理剛志による「慶ちゃんのこと」という展示作品の制作に協力した。題名にある「慶ちゃん」とは蘇理の当時12歳の小学生で震災で亡くなった弟さんのことであり、この展示はその弟さんに関するインスタレーションの展示であった。展示を構想するにあたっては、蘇理が常々語っていたことが示唆となった。蘇理は、弟さんの名前が阪神地区に数多く建設されている震災関係の慰霊碑の何カ所にも刻まれていることに違和感を抱き、「ぼくの弟は防災のために亡くなったのではないのです。何かのために亡くなったのではないのです。ただ地震で亡くなったのです」と述べていた。その違和感を解消し、亡くなった弟さんの事を適切に表現するする一助として考案されたのが、この展示である。
 作品の製作は徹底的なインタビューと弟さんに関する故地の訪問、残された品々の撮影によって行われた。インタビューは文章に書き起こされたがそれらは約1万5千字のテキストとなった。実際に展示作品として展示されたのは、そのテキストを横約15m縦約1.5mの紙にプリントしたもので、それが展示室の3方の壁面にわたるように全体に展示された。
 作品の製作にあたった蘇理は次のように述べている。
 彼の遺品は、10年のあいだにある程度整理されながら、現在はその大部分が震災後に移り住んだ家の押入や仏壇にしまわれている。それらのもののほとんどは、家族の者も一部の写真を除いてあまり眺めることもなく、部屋の隅にあることは知っていながら、普段は何となく思い出と一緒にそっとしまい込んである。
 今回、[記憶・歴史・表現]フォーラムのメンバーの協力を得ながら、家に残された彼の遺品を撮影するとともに、彼にゆかりのある人々の言葉を集めることになったが、それぞれの人の語る彼の思い出は、それぞれ重なり合いながらも微妙に異なった彼の一側面をみせる。一人ひとりは彼の一面を記憶しているに過ぎないが、それらの記憶が結び合うとき「慶ちゃん」という人間像がより豊かに浮かび上がってくる。言い換えれば、実際にはそれぞれの人が「慶ちゃん」の記憶を、少しずつ<分有>しているということになろう。(
  • 注6
    →蘇理剛志「慶ちゃんのこと」[記憶・歴史・表現]フォーラム『いつかの、だれかに』[記憶・歴史・表現]フォーラム、2005年。
 この述懐には、この展示に至る過程では、亡くなった弟さんの情報が収集され、さらに展示においては、それらの収集された情報が展示されたが、そのような過程を経ても不在となった本人を再現することはできないこと、またしかし一方で、そのような過程を経ることによって、関係した人々の間で分有されている弟さんの像が存在することを知ることができたことなどがうかがえる。当初の蘇理の違和感における防災に一元化されたメモリアルのされ方とは異なる記憶のされ方が追求されているといえる。それは、人々相互における現実認識作用の齟齬を顕在化させることによって、防災などに特化した記憶の伝え方よりも適正な記憶の伝え方となっていたと考えられる。
  • 「慶ちゃんのこと」

記憶の表現と「歴史」の表現 ― 過去表現のあり方の模索

 このような問題は、「歴史」のあり方にも再考をうながすと考えられるが、最後にそのような例を取り上げたい。「歴史」とは、現在から見てある目的のために叙述されたひとつながりの過去であると言えるが、一方、「記憶」とはそのような目的によって叙述されるものではない存在である。いずれもそれらは、過去の語り方の様態の一つであるが、近代においては、「歴史」という語り方が公的な過去に関する語り方であったといえる。しかし、近年になって、それに再考を迫るようなものが出てきているのである。
 それの一例として、ヨーロッパにおけるホロコーストをめぐる事例を挙げられる。とりわけ、ここで取り上げたいのは「ヨーロッパで殺害されたユダヤ人のための記念碑(Denkmal fur die ermordeten Juden Europas)」における歴史の表現のあり方である。これは、ドイツ連邦共和国の首都ベルリンの中心部に存在する。記念碑においても、複雑に起伏する敷地に設置された2千以上もの角柱で構成されたそのあり方の特異さによって、通常の方式でメモリアルすべき出来事ではないホロコーストの記憶表現のあり方に対するある視角の存在をうかがわせるが、併設されたミュージアムにおけるその展示のあり方が歴史の表現のあり方に興味深い事例を提供している。
 展示施設をみると、それは記念碑の地下に存在する。全体は四つの室からなる。第1室では犠牲となったユダヤ人たちの手記が展示される。展示は床面に敷き詰められたパネルで行われている。パネルは裏面から光が当てられており、手記の文字は透過光を通じて浮き出る。取り上げられている手記の多くは手書きのメモを拡大したものなどである。2番目の展示室では、15組の家族が取り上げられ、その家族がホロコースト以前の生活の様子とホロコーストによる離散の様子が写真と文書資料で描き出される。
 第3室では、犠牲になった約600万人分のユダヤ人の名前と生没年などの簡単な略歴が読み上げられ、それを文字化したものが四方の壁にプロジェクターで投影される。名前の収集には、イスラエルのホロコーストに関する資料を収集する施設であるヤド・バシェムの協力を得たという。それらの名前が全て読み上げられるためには6年と7ヶ月27日の日数が必要であるという情報が与えられる。最後の第4室では、ヨーロッパにおけるユダヤ人虐殺が行われた場所に関する情報である。どこでどのような虐殺が行われたかが展示され、それらの場所に関する証言をレシーバーで聞くことができるようになっている。最後に付属する回廊でホロコーストに関する記念碑や慰霊碑の所在地が展示されている。約200カ所が写真や映像資料によって紹介されている。
 このミュージアムの展示は、ストーリーの有無という点で「歴史」という考え方に再考をうながしていると考えられる。通常、「歴史」が叙述される際には、始まりと終わりがあるストーリーによってなされる。しかし、ここでの展示は、そのような始まりと終わりの存在を前提としていない。膨大な名前がそのまま読み上げられることは、ストーリーではないし、また家族の展示や手紙の展示も、それがホロコーストの犠牲者のごく一部の過去を展示したにすぎないことを暗示する。ここでは、「歴史」としてストーリー化される以前の過去が展示されているといえる。
 ここでは、「歴史」的文脈を示すことが、意識的に避けられているともいえる。それに代えて、表現されることが困難な人々の「記憶」の存在が暗示されている。このような展示のあり方は、「歴史」という語り方に慣れた見学者には違和感を生じさせうると思われるが、一方で、見学者がそのような違和を感じることによって、「歴史」のあり方が相対化されるともいえる。このように「歴史」と「記憶」との齟齬を顕在化させる点に、「負の記憶」の表現のあり方の今日的な特色があると思われる。

付記 本稿は2006年11月18日、串本町において開催された国立民族学博物館共同研究「災害に関する人類学的研究」(代表・林勲男准教授)の研究会での報告を文章化したものである。なお、筆者はその後、本報告と関連した論文等として、寺田匡宏「現代のメモリアルとミュージアムの場における過去想起に伴う感情操作の特徴-ポーランド・ベウジェッツ・メモリアルとベルリン・ホロコースト・メモリアルの空間構成と展示による過去表現に関する比較研究」『国立歴史民俗博物館研究報告書』138,2007年3月、寺田匡宏「ミュージアム展示における自然災害の表現について-関東大震災「震災復興記念館」の事例」岩崎信彦・田中泰雄・林勲男・村井雅清編『災害と共に生きる文化と教育』2008年を発表している。
  • ホロコーストの記念碑

  • 第1室

  • 第2室

  • 第3室