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台湾・集集地震被災地における復興活動

台湾版まちづくり「社区総体営造」との関係を中心に

服部 くみ恵 (東京藝術大学大学院)

はじめに

 1999年9月21日午前1時47分、南投県集集鎮の東北、日月潭の西12.5kmを震源とするマグニチュード6.8の地震が起こった。被災地は広域であり、その範囲は南北約105km、東西80km、合計28郷鎮にわたった(
  • 注1
     このデータは、2003年12月15日、神戸まちづくりセンター神戸芸術工科大学斎木研究室こうべまちづくりセンター・研究ネットワークのシンポジウムにおいて陳亮全台湾大学副教授が発表したデータにもとづく。
)。

震災復興社区総体営造前史

 台湾では、1999年の震災以前から日本の「まちづくり」、あるいは「住民参加のまちづくり」に相当する「社区シャーチュイ総体ゾンティ営造インザオ」という活動や政策が推し進められていた。「社区総体営造」という中国語を日本語に翻訳すると、「社区シャーチュイ」は「コミュニティ」、「総体ゾンティ」は「総体的」に、「営造インザオ」は「つくる」となるから、ちょうど日本で言われているひらがなで書かれた「まちづくり」に非常に似通ったものであると言えよう。
 震災以前に定義されたその活動や政策には以下の7つの項目が含まれている。(1)文化財の保護活動、(2)原住民(少数民族)に関する文化活動、(3)客家に関する文化活動、(4)自然環境の保護や生態保全に関する活動、(5)コミュニティの発展、(6)台湾に関する文学、(7)地方文史(郷土史再発見に関する)活動及びそれに関するフィールドワークなどの活動、(8)民間による文化芸術に関連する諸活動、などである。
 この定義から見ると「まちをつくる」活動の中で多様性のある民族・地方の文化顕彰や保護というコンテクストが非常に重視されて来たことがよく分かる。
 これは1980年代の後半、すなわち戒厳令解除前後の台湾において、台湾の「本土化」という意識が芽生えたことと関係している(
  • 注2
     ここで言う「本土化」については、台湾の教育を専門とする山崎直也の論旨が非常に的確である(pdf)。
     台湾の今日的文脈において、教育の「本土化」とは、権威主義体制下の教育において軽視されていた台湾の歴史・地理・社会・言語・芸術を、公教育の内容に取り入れていくことを意味する。権威主義体制下では、「中華民国は全中国の唯一の合法政府であり、台湾はその一部である」という国民党政権の政治的主張を補完するために「中国」ナショナリズムの教育が行われる一方、台湾語をはじめ台湾土着の知識を教育することが厳しく制限された。しかし、民主化以後、社会全般の動きに合わせるように、教育においても「本土化」が進んだ。教育の「本土化」は概ね好意的に迎えられたが、「中国」ナショナリストの視点からは、脱「中国」化の過程として認識されるため、しばしば台湾内部および中台関係の政治的争点となった。
)。

震災復興と社区総体営造

 1999年の震災後まもなく台湾の被災地では、救助救難の活動から復旧復興の活動、住居を失ってしまった人々の落ち着き先を探す政策が執られ、関連のさまざまな活動が行われた。避難所から仮設住宅へ、仮設住宅から復興のための恒久住宅あるいは住宅の再建へと被災者が落ち着くことの出来る場所を探すこの活動をひとまとめにして、台湾では「安置アンジー」と呼ばれている。
 そういった「安置」に関する一連の動きと並行して、生活再建の必要性を見据えたさまざまな活動も同時並行的に行われた。
 文化の創造や顕彰を主として掲げる社区総体営造と、被災地において非常に差し迫った問題である救難や復旧復興、そして再建の問題とは一見相容れない問題のように思われる。しかし次に挙げる二つの事例は確実に震災以前から流れる社区総体営造の精神を受け継いでいる。と共に、地震という自然災害に直面した事が原因で、震災復興という新たな要素が加わり、震災以前の社区総体営造の考え方を引き継ぎながらも新たな社区総体営造の方向性を提示している。
 一つ目の事例は、住宅再建の問題に端を発し、住宅再建を考える上で避けて通れない個々の生活再建の問題――具体的には安定した家庭の収入の問題――へと思いをめぐらし、そこから地域の基幹産業の転換と地場産業の創出、地域の雇用創出から人々の故郷への自信を取り戻すということまでを内包している南投県埔里鎮桃米社区の事例である。
 もう一つは震災後の「安置」の問題、とりわけ災害時社会的弱者になりがちな老人の問題を取り上げつつ、老人の生活再建の問題および、今後の高齢化に向けて老人をどう考えるかという問題提起まで行っている同じく南投県埔里鎮長青村の事例である。
 本文の文末に付録として桃米社区と長青村の写真を添付し、それぞれの簡単な紹介を加えた。

まとめにかえて

 7月30日の民族学博物館における発表では震災後社区総体営造の考え方によりコミュニティの問題の再建を行った数多くの事例について発表した。しかし紙面の都合で、個々の事例の深みや多くの事例の広がりを詳細に記述することが出来ない。巻末の長青村および桃米社区の簡単な紹介を参照していただければ幸いである。
 震災以前の社区総体営造の事例と震災以降の社区総体営造の事例を比較してその精神が引き継がれていると考えられるのは、いわゆる「まちづくり」のプロセスに加わった人々の「物語」を大切にするということである。コミュニティにはどんな背景があり、そんな危機に直面していたのか。どのようなキーパーソンがその危機を乗り切り、その過程でどのような結果が生まれたのか。震災前後の社区総体営造ともに、そういった「物語」が重視される。また、住民の口から訥々と、現場で直接語られるその物語は非常に魅力的であると言えよう。
 震災以前の社区総体営造と比べて震災復興のプロセスの中で見られる社区総体営造が変わったと思われるのは、震災を機に社区総体営造を支援する行政の申請のメニューが増えたことかもしれない。これは、あるいは震災を機にというよりも、2000年総統選挙による政権交代を機に、と言うことが出来るのかもしれないが、そこまで言うためには筆者自身もう少し研究を進める必要があると言える。
 最後に、私見であるが、1999年から台湾の社区総体営造に関わって来て感じたことを述べる。
 筆者は台湾の社区総体営造に携わる人々と日本のまちづくりを行う人々の間の交流や通訳等を行って来たが、その中で現場に携わる人々がよく耳にする言葉がある。それは、震災復興社区総体営造の大きな問題や進展のきっかけあるいは大問題に発展することの原因が、実は日々の活動、日々の生活の些細なことの中にあることが多い、ということである。本年初頭に台湾と神戸のまちづくりの現場で活動を行う非営利組織の人々の交流の通訳をした時も、台湾、神戸の復興に関わる非営利組織の双方の人が同様の趣旨の話をし、深く頷き合っていたのが印象的であった。
 国家のあり方や制度が異なる台湾と日本の現場の人々にとって、理論化された防災・減災の概念や政策の資料を読み解く研究も必要であろう。しかし一番現場に近い活動をしている非営利組織やコミュニティ(社区)の住民達にとっては―場合によっては―日頃の些細な出来事も含めた活動の民族誌的な詳細な記述が、災害時の活動にとって非常に役に立つのではないかと考えさせられる場面に遭遇することも多い。

付録1:南投県埔里鎮桃米社区

 桃米里は、埔里市の中心部から西南約5kmのところにある。里の面積は18平方キロメートルで、人口は1264人である。震災以前、この地域の主要な産業は麻竹やその筍の収穫、及び筍の加工などに頼っていた。しかし、1990年代後半から、この産業は没落し、桃米地区全体が経済的に大打撃を受けた。そんな中で起こった1999年の地震ではこの里に存在する369戸のうちの168戸が全壊し、60戸が半壊、すなわち里の全戸数における倒壊家屋の割合が62%という大きな被害を受けた。地震後間もなく、この里の里長は社区のための再建委員会を作った。
 社区総体営造に関しての経験とノウハウを持つ埔里の非営利組織、新故郷文教基金会が里長に招かれ、住宅再建についての会議を重ねた結果、住宅再建の礎となる各家計の安定、生活再建が大切であるということが論じられた。また、従来の竹や筍のみに頼った産業では地域も地域の生活再建も立ち行かないという結論になった。そのとき、地域の生物多様性を利用した観光業で再建を行う構想が浮かんだ。桃米の持つこのポテンシャルについて指摘したのは、行政院農業委員会特有生物研究センターの研究員であった。ここでは、台湾でしか見ることの出来ない生物のうち、蛙は21種類(総数の21%)が、蜻蛉は43種類(同30%)が、鳥類に関しては60種類(13%)目にすることが出来るという。現在では、住民がエコツーリズムのインタプリターとして訓練を受け、解説するしくみができ、民宿にとまりながら自然環境について学ぶエコツーリズムの場になっている。活動で人々が得た収入は、業種に応じて一定の歩合が拠出され、公基金として地域の環境を整備するための積み立て金となっている。
  • 環境改善イベント

付録2:南投県埔里鎮菩提長青村

 菩提長青村は、震災後、老人達が集まって暮らす仮設住宅である。震災後、家を失ったり、一人暮らしであったり家庭の問題をかかえる老人がここで暮らしている。本来、埔里鎮を中心とする地域のさまざまなコミュニティから集まって来た老人達であったが、一緒に暮らすうち、ここは一つのコミュニティとなった。この村の「村長」を名乗るのは、以前埔里でレストランを営んでいた夫婦で、埔里内外の人脈も多く、人脈や資源活用し、震災直後は簡素な仮設住宅でしかなかったこの地域に国内外から集まったボランティア達と一緒に花を植え、写真にあるような天蓋でおおったりして生活しやすい空間とした。村のハードを整備した後は、ここに暮らす老人を、「ケアされるだけの、受動的な老人にしない」という考え方のもと、訪れる人にコーヒーを入れたり(この場合、長青村が臨時コーヒーショップの場に、老人達がウエイトレス、ウエイターとなる)、みんなで車に乗り、長青村で育てた花卉を売りに行ったりする。これらの活動を通じて居住する老人達は、自分が社会にとって意義がある人間であるということを自覚でき、自信につながったとともに、コーヒーショップや花卉栽培の活動は長青村の活動の資金源にもなっている。また、長青村の活動は、老人を老人という既成概念に当てはめないという考え方につらぬかれている。コーヒーショップなどの事例もそうであるが、老人達などに恋愛などの感情が生まれてきた場合も積極的に応援している。先日も長青村で知り合った男女の結婚式が、長青村を会場として行われた。しかしながら、この村は、仮設住宅の建物を利用しているが故に、毎年政府による仮設住宅撤去政策の危機に瀕している。文化政策、福祉政策を行っている政府機関の中には長青村を支援している機関も多いが、仮設住宅撤去を以って震災復興を完了したと言わなければならない立場の政府機関にとっては、長青村はやはり矛盾を有した存在となっている。
  • 長青村にて