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災害復興と文化遺産

南インド、タミルナードゥ州における2004年インド洋大津波被災地の例から

インド津波災害における文化遺産

 2004年12月26日に発生したインド洋大津波により、インド国内では1万人以上の犠牲者が出たとの報告もされている。被害は、ベンガル湾に面する東海岸のタミルナードゥ州で最も大きく、次いで、アンダマン=ニコバル諸島、ケーララ州、アーンドラ=プラデーシュ州などにも被害が及んでいる。
 人的被害や住居、生業に直結した建築物などへの被害が深刻であったため、外からはあまり関心が寄せられることがなかったのが、寺院や遺跡などの文化的建造物に対する被害である。
 本論文では、そうした文化的建造物への被害の概要と、その修復や改修の状況、さらには被災地の復興過程全般との関わり合いについて考察していく。
 調査は、2005年2月~3月の調査を始めとし、2005年7月~8月、2006年9月、2007年8月と、計4回にわたり行なわれた。調査者は、当該地域での調査の経験が豊富であり、現地に知己も多く、現地で使われるタミル語にも堪能であるため、被災者やその他の関係者を中心とした聞き取り調査には大きな支障はなかった。
 調査地としては、最も被害の大きかったタミルナードゥ州のナーガパッティナム県やカンチープラム県の被災地が中心である。また、インド中央政府やタミルナードゥ州政府の考古学関連機関や観光関連部署などの公的機関での調査もあわせて行なった。

各地文化遺産の被害と対応

 インドにおける文化財、文化遺産のあり方を考えるとき、いわゆる私たちが概念として考える文化財は、インドの一般の人々にとっては、乖離した存在となっていることに注意しなくてはならない。彼らの多くにとっては、文化遺産は、広い意味での実生活とのかかわりの中で捉えられるものなのである。その意味で、「文化遺産」を取り上げる際には、我々の考える一般的な定義よりも、さらに幅の広い見方で捉える必要があろう。
 以下、いくつかの文化遺産への被害の概要と復興のあり方について述べることとする。
マーマッラプラム
 ベンガル湾に臨んで立つ、8世紀初めに造営された海岸寺院 Shore Temple は、現存する最古層の石積み構築寺院として重要な文化遺産である。世界遺産でもあるこの寺院では、インド中央政府考古局が建造した防塁の存在により、実質的な被害は最小限にとどまった。防塁にさえぎられた水がその南側へと回り込み、寺院本堂の床面や周辺の構築物に泥を堆積させた程度であった。被災後の政府考古局の迅速な対応も目覚しいものであった。
 さらに、今回の津波を‘契機’に、新たな遺構が発掘されたことも注目される。その一つは、レンガ製の寺院遺構であり、海岸寺院などよりもさらに古くまでさかのぼるものである可能性が指摘されている。インド建築史上でもきわめて重要な発見として注目される。
 観光局は、津波後のこうした発見を津波がもたらした「恩恵」として、宣伝に利用したが、それでも、観光は一時大きな打撃を受けた。その後の観光客の復帰は意外と早く、文化遺産という目に見えるかたちでの観光資源がそのまま無傷であったことが幸いしたといえる。
 また、津波の跡を見てみたいという人々による一種の「津波観光」が、一定の水準で観光を下支えしてきたことも指摘できる。
マーマッラプラムの観光客の推移
  • 寺院の防塁

  • 津波直後の寺院

  • 発掘された寺院

  • 発掘された寺院

タランガンバーディ
 町のシンボルとして海岸に立つダーンスボルグ城はデンマークによるインド進出当時に建造されたものであり、1980年にタミルナードゥ州政府考古局の保護遺跡に指定されている。今回の津波による城塞への被害はそれほど大きなものではなかった。これは、元来堅固な造りであったことに加えて、大規模な整備改修が数年前に済んでいたことが要因と思われる。一方、城塞の北約200mに位置するマーシラーマニナーダル寺院は、由緒のある古い寺院であるにもかかわらず、中央政府、州政府いずれの考古局によっても、保護遺跡には指定されていない。すでに、津波に先立つ10年以上も前から、海岸侵食とサイクロンの影響により、寺院の崩壊が進み、本殿左脇の祠堂は完全に崩れ落ち、その残骸が波に洗われたままとなっている。津波後に個人の篤志家による補強修復が進み、政府もようやくこの寺院の惨状に目を向けるようになってきた。津波をきっかけに、これまで等閑視されていた歴史的に貴重な寺院にようやく注目が集まるようになったのである。
 また、タランガンバーディでは、津波後にタミル式の伝統家屋の修復保存作業が始まったが、津波を恐れて古い形式の家屋に住みたがらない人が増えたため、修復保存作業がスムーズに進められるようになるという状況も生まれている。
 タランガンバーディでは、現在観光客が増えているという。もともと観光地として潜在的可能性を持っていたタランガンバーディは、津波の被害とともに人々の関心を深め、観光資源の豊かさが注目されるようになったのである。
  • マーシラーマニナーダル寺院

  • マーシラーマニナーダル寺院

アーランバライ
 アーランバライは17世紀後半にムガル朝によって建造されたレンガ造りの城塞であり、内海に面した天然の良港となっている。この城塞は、タミルナードゥ州政府考古局の保護遺跡に指定されている。しかし近隣の住民の間でさえ知名度は低く、永らく荒れ果てた状態のまま放置されている。津波はこの遺跡に甚大な被害をもたらした。州考古局は修復のため、750万ルピーの予算を計上しているが、現在まで遺跡の修復は行なわれていない。その理由は、遺跡の崩壊の程度があまりにもひどいことにあるが、さらに、遺跡にすぐ隣接するかたちで恒久住宅が無断で建設されたことも、対策に踏み切る上での障害となっている。
  • 城と隣接する恒久住宅

ウイヤーリクッパム
 漁村であるウイヤーリクッパムでは、津波によって集落は壊滅的な被害を受けた。村には政府の指定するような歴史的に重要な遺跡はないが、広義の文化遺産として注目されるのが、ウーットゥカーッタンマン寺院である。寺院はすでに津波以前から賑わいを失っていたが、津波はさらにこの寺院を廃墟としてしまった。津波後、移転した新集落に外部の篤志家からの寄付を受けて再建されたウーットゥカータンマン寺院は元の寺院とは見違えるような立派な寺院となり、毎週の礼拝や寺祭りも行われるようになった。被災住民の生活再建において、地域の中の「文化遺産」の再建が重要な役割を果たしているという一例である。
  • 旧寺院

  • 新寺院

考察と課題

 今回の津波により、南インド、タミルナードゥ州では、さまざまな種類の文化遺産がさまざまな形の被害を受けた。また修復の度合いも、管轄する主体や周辺住民の日常生活と遺跡との関わりなど、さまざまな条件によって規定されていた。
 マーマッラプラムの防塁やタランガンバーディの城壁は、本来今回の津波のような大規模自然災害を想定したものではなかった。しかし、今回の津波に対してそれらが一定の効果を示したがために、皮肉にも、将来の同様の自然災害を想定した新たな体制を策定することにはつながらなかった。
 今回の津波のような大規模災害において、地域社会の生活の復興、コミュニティーの再生を視野に入れた場合、広義の文化遺産の占める位置づけは低いものではない。それでは、文化遺産の復興は被災地の復興の中でどのように位置付ければよいのだろうか。
 大規模災害の復興過程を、(1)失見当期、(2)初期復旧期、(3)復興期の3段階に分けた場合、文化遺産の復旧は(1)や(2)の段階では中心的課題とはあまり考えられることはない。ところが意外にも(3)の復興期より前の段階に、寺院等の文化遺産の修復や改修・改築が行われている例が決して少なくない。このことは、被災した住民の生活復興の中で、文化遺産の復興の持つ意味が決して小さなものでないことを示している。
 日本の中越地震では、公的な復興基金の中に、地域コミュニティー維持のためとして、寺社等の復旧資金援助が組み込まれているが、インドの場合、災害復興の主体となっている国内外のNGOには、宗教的色彩の強い施設の建設までは期待されていない。また、考古局の管轄下の文化遺産でさえ修復が進まないものがあり、文化遺産の復興の主体となるのは一般市民や個人の篤志家とならざるを得ないという現状がある。文化遺産は観光資源という点でも住民の生活と深い関わりを持っている。風評被害で観光客が減少する所がある一方、一時的な「津波観光」とでも呼ぶことのできるような状況も生じている。その後の経過としては、観光地としての再興、もしくは修復・整備が進まずに衰退する方向があるが、注目すべきなのは、津波後にその町が持っていた観光資源が新たに見直され、観光地としての可能性が引き出された例である。自然災害に対する文化遺産の防災対策は、被災地住民の生活復興を考える上でも重要である。また、文化遺産を、文化的社会的パターンの一部として捉えることが、その保存や防災には重要であるとの指摘もされている。
 災害をめぐる文化遺産の研究は、まだ端緒についたばかりである。今後、さらにさまざまな視点からの研究が必要とされるであろう。