KIKUSAWA Ritsuko

散歩道(エッセイ集)

ことばというパスポート(1)
フィジー語

 英語や日本語とは全然違う言語を勉強してみたいな。大学の図書館に行ったら、フィジー語の文法書があった。学生が頻繁に海外旅行にでかけだす以前のことで、私は例文にでてくる単語をみてはじめてへ ああ南の島なんだ、と気づいたくらい。文字はアルファベットで正書法は日本語のローマ字に似ているから、読み方に慣れるのはそんなに難しくない。でも、カセットテープなんてついてこないから、どんな風に聞こえる言語なんだか全然わからなかった。だから発音できないし、発音できないと文が覚えられない。語順はいわゆるVOSで動詞が最初で主語が最後、確かに英語や日本語とは「全然違」ってわくわくしたけれど、例文をながめているだけでは、「だれだれが」が文の最後にあったりして本当に意味が通じるのだか,どうにも心もとない。それに単語だって、「ココナツ」や「さんご礁」ならいいけれど、「パンダナスのマット」とか「ココナツの外皮からとった繊維で編んだひも」とか、実物が全然思い浮かばないし、「村の首長会議」といっても何を話し合う場所なんだかちんぷんかんぷん。長い文はいつまでたっても読めるようにはならなかった。

 そんなまるで化石のようだったフィジー語は、はじめての現地調査で本当のことばになった。覚えられなかったはずの単語が'実物を目にしたとたん口からすんなり出てくる。本が読めなかったのは、日本では想像もしないような生活背景があったためだとわかった。そしてもちろん、主語を文の最後にくっつけたってちゃんと話はできるのである。どんな外国語でも、自分の言いたいことが少しずつ表現できるようになるのは本当に楽しい。

 でも何よりの励みは、'ほんのカタコトでも大歓迎してれる、フィジーの人達の反応だった。フィジー系住民とインド系住民が約半数ずついるフィジーの公用語は、ご-最近まで英語のみ。英語がつかえるから、観光客はもちろん、外国人は、まずフィジー語は覚えない。カタコトのフィジー語を話す私はどこにいっても珍しい存在で、バスに乗ってひとことなにか言うとあっというまにとり囲まれて質問攻め、降りるまで退屈することはない。恥ずかしがりやのフィジー系の人達が、フィジー語が話せるとわかったとたんにすっかり彼らのペース。「どうしてフィジー語を話せるの」「うちに一泊していきなよ。」何度も同じ質問に答えるうちに巻き舌のrも発音できるようになったし、挨拶の仕方も返し方も覚えた。慣れてしまうと、英語とフィジー語を使い分けるようになった。おしゃべりしたいときにはフィジー語、そっとしておいてほしいときには英語、インド系商人とは英語だけれど、よそ者だと思ってごまかされそうになったら「うっかり」フィジー語でひとことふたこと。フィジー語は、現地の人達との関係を近くにも遠くにもあやつれる魔法の糸みたい。だから、フィジー本島の山奥にあるナンラウ村に調査に行くまでは、フィジー語のために困った状況におちいるなんて、思っても見なかった。

 ターヴアからナンラウまで行くバスが運行休止になったかもしれない、というのは聞いていた。でも、聞く人によって返事が違うものだから、とにかくターヴアまで行ってみて、もしバスがなければ市場へ行って野菜を売っているナンラウの人を見つけるつもりだった。村人たちが街との間を行き来している何らかの交通手段——馬か、keriaと呼ばれるトラック——があるはずだ。

 さて、特急バスが無事ターヴアに到着し、街に一歩足を踏み出したとたんにインド系のタクシーの運転手たちに囲まれる。ナンラウまではタクシーで行くしかないよ。自分の車なら片道四五ドルにまけてやる。私はkeriaを探しているの、と言うのに、そばに止めてあるタクシーを指さして、これがkeriaだといって譲らない。幸いにしてすぐ近くにフィジー系の女性が二人、こちらを見ているのが目に入ったから、「ね、ナンラウ行きのバスがあるかどうか知っている?」とフィジー語で話しかけた。彼女達は驚く様子もなく、あるよ、と言い、商売熱心なインド系の運転手たちは散っていった。あたりで話を聞いていた人たちは憤慨している。四五ドルもとろうとするなんて。

 ところが。切符売り場に行ってみると、案の定、ナンラウ行きのバスは欠便になって久しいとか。これは覚悟していた状況であるけれど、ぴったり付き添ってくれる二人の女性は計算外だった。「ターヴアはいい街だよ。ナンラウまでなんて行かなくたって」「ターヴアの言葉を教えてあげるよ。」私一人なら、目の前の青空市場に飛びこんでナンラウの人を探すのに、と思っているうちにまわりには好奇心でいっぱいの黒山のひとだかり、まったく身動きがとれない。「うちにとまりにおいでよ」「ナンラウよりうんと近いよ。」親切なフィジーの人達に囲まれて、私は途方に暮れてしまった。そうでなくても今回は調査期間が短い、とただ心の中であせるばかり。はやく、はやくどうにかしなければ、村の人たちが山に帰ってしまうではないか。

 そこへ男の子が走ってきて英語で話しかけてきた。「ナンウラまで行く方法はないよ。野菜トラックに乗りでもしない限りね。」インド系にもフィジー系にも見える彼を見て一瞬迷ったが、とっさに決心して怒鳴り返した。「その野菜トラックを探しているの。お願い、乗せてくれるか聞いてきて。」思いがけないフィジー語での返事に一瞬ぽけっとした彼は、次の瞬間にはもう駆け出していた。もちろん、私が探すよりうんと早い。数分もしないうちにもどってきて、ちょっと離れた黄色いトラックを指さし、話はついたから、すぐ出発だよと、私の荷物を担ぎ上げた。そのあとは、野菜トラックに揺られて山道をどんどん終点まで登り、無事ナンラウ村に到着したのである。料金は五ドルだった。

 その後、あれっと気づいたのは村にすっかり落ち着いてからのこと。そういえば。誰も私に野菜トラックに乗るのが平気かなんて、聞かなかった。ちゃんとした座席のないことを断りもしなかった。私が野菜トラックに乗りたいと叫んだら、当たり前のように乗せてくれて、そしてこれから行く山での生活のことを話してくれた。服装も荷物も顔つきも見かけは明らかに外国人である私を初めて会った現地の人達が違和感なく受け入れてくれたとしたら、その理由は一つしかない。フィジー語がやっぱり、私のパスポートならぬ「乗車券」だったのだ。ナンウラまでの交通機関があるのかどうか人々の返事がいろいろだったのは、きっと、私が英語を使ったりフィジー語をつかったりしていたためだったのに違いない。

 村での生活は少し寒かったけれど快適で、帰りは酋長がご自慢の専用車でターヴアまで送ってくれた。でも、ナンラウの言葉を覚えた私は、野菜トラックの帰りのチケットを無駄にしたような気がして、ちょっぴり損をしたような気持ちでこの名誉を受けたのである。

2001. 『月刊言語』1月号 掲載.