KIKUSAWA Ritsuko

散歩道(エッセイ集)

ミクロネシアのポリネシア人——ヌクオロ島とカピンガマランギ島の住人たち——

 カロリン諸島の南に少し飛び出た場所、そのまま南へ進めばメラネシアのソロモン諸島へ、まっすぐ東に進めばキリバス諸島へとつながる位置にヌクオロとカピンガマランギという二つの環礁がある。地理的にはミクロネシアの一部、政治的にもミクロネシア連邦に属するこれらの島々には、ポリネシア系の言語を話し、文化も身体の特徴もポリネシアのそれを受け継ぐ人々が住んでいるという点で、ちょっと特別な存在だ。

 「ポリネシア人」がミクロネシアやメラネシアの辺縁部に点在していることは早くから知られており、辺境ポリネシアまたはポリネシア文化の飛び地 (Polynesian Outliers) と呼ばれてきた(地図参照)。ポリネシア人の祖先は、南太平洋を東に向かって移住したオーストロネシア人であることが知られている。辺境ポリネシアの人々について、以前は、このポリネシアに定住した人々のなかの一団が、後になってメラネシア・ミクロネシア方面、つまり最初の移住のルートとは逆の方向に再移住をはじめ、少しずつ分散して、それぞれ現在の居住地域に落ち着いた結果であると考えられていた。ところが、近年の考古学や言語学の成果により、ポリネシアにおける起源地や移住の時期が単一ではなかったことがわかってきている。ヌクオロとカピンガマランギには、おそらく紀元後一千年紀ごろにポリネシアのツバルからきた人たちが定住した後、環境に適応しながらも独自の文化を造り上げて今日に至った。ちなみに、考古学的に確認されたこれらの島々での人類の居住はヌクオロについては八世紀以降、カピンガマランギは十三世紀以降となっているが、それより早い時期にもポリネシアからきた人たちが定住するまでミクロネシアの人による断続的な居住がみられたか、あるいは周辺の人々によって一時的な住み処または停泊地として利用されていたのではないかと考えられている。この二つの島に近いミクロネシア地域で紀元後四〇〇年前後にはすでに人の居住がみられた地域もあることを考えると、そんなに遅い時期までこれら二つの環礁だけが存在を知られずにいたとは考え難いからである。

 ヌクオロやカピンガマランギに住む人々がツバルから来たであろうと考えられるのは、主として言語学的な理由による。ヌクオロ語とカピンガマランギ語は、ポリネシア諸語のなかのエリス語族に属するが、この中にはエリス語のほかに同じく辺境ポリネシア語のシカイアナ語(Sikaiana)、ルアンギウア語(LuangiuaまたはOntong Java)、タクー語(Takuu)などが含まれる。残念ながらこれらの言語間の詳しい系統関係はまだよくわかっておらず、したがってツバルを出た人々が歴史的にどのような経緯を経て辺境ポリネシアに到達したのかも定かではない。ただ、この分類を単純に地図上の位置と照らし合わせると、ツバルを発したポリネシア人がシカイアナから順に北上し最後はヌクオロにたどり着いた、というシナリオも可能であるように思われる。

 ミクロネシアに住むポリネシア人たちの起源は身体的な特徴にも反映されている。たとえば、身体計測値の類型によると、ミクロネシアで広く見られるのは小頭で濃い色の皮膚と巻き毛(トラック・タイプ)、あるいは、中身長で長い頭・長い顔(ポーンペイ・タイプ)を特徴とする形質であるが、これに対して辺境ポリネシアの人々はヌクオロ・タイプと呼ばれ、長身で大きい頭と広い顔といった形質を持っており、ポリネシアの人々により近い特徴を示している。以上のような言語、身体的特徴に加え、社会組織についても、父系または母系といったミクロネシアに広く見られる単系出自制度ではなく、ポリネシア一般にみられる選系出自集団制度に基づいたものとなっている。

 このように、周辺の住人たちより少しあとの時代になってから異なる経緯でミクロネシアの南端部に到達した人々は、ポリネシア文化の伝統を受け継ぎながらも環礁という限られた居住地域に適応し、緊密な社会組織をつくりあげた。周辺のミクロネシア社会からも影響を受け続け、その結果、ミクロネシア文化を土台としてポリネシア文化の影響を受けるという逆のパターンで発展をみたキリバスの文化とは、特に共通点が多くみられることになった。たとえば、太平洋ではラトルと呼ばれる貝やココナツの殻でつくった鳴り物でサメをおびき寄せて捕獲するサメ漁の方法があるが、ミクロネシア内ではこれが用いられるのはキリバスとカピンガマランギ環礁に限られる。偶然両地域で似たような方法が発展しただけかもしれないが、同時にこの地域間で何らかの行き来があったことを示唆している可能性もあり、興味深い。もっとも明白にポリネシア性を保っていると考えられる言語でさえも、たとえばカピンガマランギ語にはポーンペイ語に存在するような数を数えるときの分類詞(前章参照)が多くはないとはいえいくつか存在していたり、ポリネシア諸語では動詞が文頭に来るのが一般的であるのに対し、ヌクオロやカピンガマランギ語では主語が前に出た語順に変わっているなど、周辺のミクロネシア諸語の影響も指摘することができる。

 このようにもともと持っていたポリネシア的な文化側面を維持すると同時に、自然環境や周辺地域の文化に適応し暮らしてきたカロリン諸島南部の住人たちであるが、近年では島外、特にポーンペイ州に住む人々の割合が年々増加している。約二千人と言われるカピンガマランギ語の話者はピンガマランギ島とポーンペイのポラキート村(Porakiet village)の半々に分かれているし、ヌクオロ語の話者の方も一九九八年には八六〇人のうち一二五人がポナペに住んでいたという記録がある。にも関わらず、二つの地域の間を結ぶのは、現在でも運行予定は月一度、実際にはそれより頻度の少ない不定期便であるミクロネシア連邦の調査船のみであり、近化的で忙しいポーンペイ島での暮らしとは対照的に、南の環礁では現在でもポリネシアの伝統に基づいた、時間のゆったり流れる暮らしが続いている。