KIKUSAWA Ritsuko

散歩道(エッセイ集)

オセアニアの栽培植物「ミズズイキ」のルーツを探る

 南太平洋の食用植物には、ココナツだとかパンの実、カッサバなどといった珍しい植物が多いが、その中にひとつ、とても懐かしい形をしているものがある。くるりとしたまるい形にビロードを思い出させるような濃い緑色の葉。はじかれた水がコロコロ転がり続けるのが不思議で、子供のときにはいつも、こぼさないようにそうっと眺めていた。ただし太平洋でのそれは「タロイモ」と呼ばれ、芋の部分は日本でイメージするサトイモよりずいぶん大きいものが多い。味もちょっと大味だ。
 太平洋ではサトイモ科の植物はあくまで食べ物である。葉の上の水玉なんて話題にも出ないし、ましてやそれで墨をすって書き初めするなんて、話してはみたけれどよく理解してもらえなかった。ところが、言語調査のためにフィジーの村に出入りを続けるうちに、サトイモならぬタロイモの別の側面が見えてくることになる。とにかく種類がたくさんあって、それぞれに名前がついているのだ。日本語でいえば、サトイモ、ヤツガシラ、それに最近ではセレベスなんていうのもあるが、こういうのが二十も三十も次々と出てきて、それがタロイモと馴染みのない私にはまた、どう見ても全部同じに見える。これではタロイモの名前を調べても記録できないではないか。かくて、言葉を専門とする私のタロイモとの格闘がはじまった。


オセアニアのサトイモ科食用植物

 最初に学ばなくてはならないのは、サトイモのような形をした植物を大きいグループ(生物学でいう「属」のレベル)に分けること。図1はその中でも伝統的に利用されてきたもので、この三つを区別するのは慣れればそう難しくはない。もともと日本で一般に見られたのはタロイモ(サトイモ)だけだと思うのだが、クワズイモは最近、小型のもの(といっても1.5メートルほどのものもざらだが)が日本でも観葉植物としてよく売られている。形の違いと同時に生育条件が違っており、地域によってそれぞれの重要性も異なる。私がよく調査に行っていたフィジーの村ではタロイモ以外はほとんど食べないが、トンガ・サモアの地域ではクワズイモがタロイモと同じくらい重要だ。また、ミクロネシアやポリネシアの環礁島ではミズズイキが主要根栽作物となっている。図2のようにミクロネシアやポリネシアの島々、つまり大陸部から離れた場所に点在するさんご礁の島々で栽培される。
 種子で繁殖する植物であれば、種が波にのって漂着したり、はたまた鳥に運ばれたりして自生をはじめる、ということもあるかもしれないが、サトイモ科の植物の場合には株での繁殖が中心だ。つまり、人に運ばれなくては海を渡ることはない。タロイモやクワズイモは、最初に人類が居住をはじめたときにオセアニアの島々に持ち込まれたことがわかっているが、ミズズイキについては誰によっていつ、どこから環礁島に入ったのかがはっきりしていない。それならミズズイキを示す単語を比較することでそのルーツを探ってみよう、ということになった。


太平洋地域への人類の居住

 そもそもタロイモやクワズイモをオセアニアに最初に持ち込んだ人というのはどこからきたのだろうか。現在の定説では、台湾にいた人々が南下してフィリピン、インドネシアを経て東の方向四方へと拡散したと考えられている(図2)。ミズズイキの栽培が見られるミクロネシアへは、パプアニューギニア・ニューブリテン島付近から、ポリネシアへはフィジーからトンガ・サモアを経て人が住むようになったと考えられている。この人たちは今から1500年〜2000年前に、星や潮の流れをたよりに太平洋を航海し、どんどん移住を続けた。人々が新しい島へと移住するときには、移住先で新しい環境に適応し生き延びる可能性を最大限にするために身のまわりにあるものすべて、とくに栽培植物の類はできるだけ多くの種類を持っていったであろうと考えられる。そのとき船に積み込まれた荷物のなかにはミズズイキは入っていたのだろうか。それとも、ミズズイキは人々が太平洋に定住した後のある時期に新しい食物として入ってきたのだろうか。


無文字社会のむかしを知るには

 オセアニアは伝統的には口承伝承社会で、書かれた形での資料が現れはじめるのは19世紀のはじめになってからのことである。したがって、ミズズイキの伝播経路などといったオセアニアの先史に関する研究では、現在存在するものに基づいて過去を「再建」する作業が主となる。考古学では、地面の中に残っていたものを発掘し、いつ、どんな風に使われていたものなのだか、どこから来たのかなどについて仮説をたてる。生物学では遺伝子の比較などから、どの生物がどの経路で広がったか、についての仮説をたてる。同様に、言葉を研究する言語学の分野でも、昔について研究する分野がある。この分野を比較言語学、または歴史言語学という。
 比較言語学はヨーロッパやインドの言語の系統関係(「インド・ヨーロッパ語族」)の研究から始まった分野で、一般的には文献研究が主である。ところが世界には、オセアニアのように文字のなかった地域もたくさんあり、そんな地域の言葉を対象とした比較言語学では、やり方を変え、現在話されている言語のなかに埋もれている過去の記録を掘り起こす作業をすることになる。言ってみれば「ことば」を対象とした考古学である。この比較言語学の手法を用いてミズズイキを示す語を分析してみることにしよう。


ミズズイキを示す語を「発掘」すると?

 植物などの伝播経路をめぐって似た語を比べるという試みそのものは、なんら新しいものではない。ミズズイキに関して言えば、民族植物学者バローが1956年に図3のような資料をつくっている。ここで気をつけなくてはならないのは、ミズズイキを示す似た単語がいろいろな言語で見つかっても、その事実だけではその伝播経路については何も結論づけることができないということである。最初にこの地域に入ってきた人たちがミズズイキとともにこの名称を持ってきた場合にも、この地域に人が定住したあとでミズズイキという植物が持ち込まれたときに名前が一緒に入ってきた場合にも、似たような名前が広範囲の言語にわたって見られることになるからである。このいずれであったのかを知るためには、比較言語学における専門的な分析をする必要がある。それは具体的にどうすればよいのか?
 ごく簡単に言ってしまうと、各単語に現れる「音の対応」を調べるという作業をすることになる。同じ言語から発達してできた言語には、音の対応が規則的にみられる単語がたくさんある。たとえば、言語Xで t である場合、言語Yでは必ず k だといった具合である。言語学者はこのような音の対応を調べて表にする。そして、複数の言語にみられる似た単語の音の対応が、この表と一致すれば、共通の祖先である言語の時代から受け継がれた単語である可能性が高い。逆に表とは違っていたら、人々が定住した後に入ってきた単語である可能性が高い。このようにして、オセアニアにあるいろいろなものが、人々が居住をはじめたときに太平洋に持ち込んだのか、あるいは、定住後、外から持ち込まれたものなのかを特定するのである。
 表1-3にはミズズイキを示す語として過去の文献にあげられた例を音の対応と一緒に示してみたので、興味があったらそれぞれの単語について音の対応がどれくらい一致しているか見てみてほしい。細かい解説は省略するが、このデータに基づいて出せる結論しては次のようになる。
 まず、音の対応が一致する部分は、ミクロネシアの言語のうち、チューク諸島以西で話されている言語で、したがって、この地域に人々が居住をはじめたとき、おそらくミズズイキを持って移動したのであろうと考えられる。ニューギニアの島嶼部の言語では、音の対応が一致しないだけでなく、そもそも意味がミズズイキではないものが多いので、これは、最初に来た人たちが持ち込んだと考えるには無理がある。おそらく、栽培種としては時代が下ってから入ったものであろう。ポリネシアの言語はちょっと微妙で、細かい専門的な判断が入ってくるのだが、栽培が定着した後のミクロネシアから、植物がその名前と一緒に入ってきたのだと考えるのが妥当だと考えている。まとめとしてこの伝播経路を地図上に示すと図4の様になる。
 なお、関連事項として栽培法やピットに関する語についても「発掘」を試みたが、残念ながら系統だって仮説を立てられるものはみつからなかった。このことは、ミズズイキの栽培がオセアニアに最初に居住した人々に持ち込まれたのではないことを裏づける、という解釈も不可能ではない。もし栽培方法が同時に伝わっていたら、それに関する用語がもっと広範囲に見られてもよいからである。


ミズズイキを示す語を「発掘」すると?

 それでは「言語学的」に単語を比べるというのはどうすることなのか?ごく簡単に言ってしまうと、各単語に現れる「音の対応」を調べるのである。同じ言語から発達した複数の言語には、音の対応が規則的にみられる単語がたくさんある。たとえば、Aという言語で t の場合、Bという言語では必ず k だといった具合である。比較言語学者はこのような音の対応を調べて表にする。似た単語が複数の言語に見られるとき「音の対応」が、この表と同じだっていたら、共通の祖先である言語の時代から受け継がれた単語である可能性が高い。つまり、太平洋の場合には、最初に居住した人々がすでに持っていた単語であると考えられる。逆に「音の対応」が違っていたら、最初からずっと持っていたというわけではないようだから、いくつかの可能性はあるのだが、人々が定住してから入ってきた単語である可能性が高いと考える。このようにすれば、オセアニアの言語にみられるいろいろな単語が示すものが、人々が居住をはじめた最初から太平洋にあったのか、あるいは、もっとあとになって持ち込まれたものなのか、がわかるのである。  近年、オセアニア言語学の研究界では太平洋で昔使われていた単語を再建しようという試みが盛んになっており、ミズズイキもその対象になった。そして、三人の言語の研究者が三人とも、ミズズイキはオセアニアに最初に居住をはじめた人々が持ち込んだと仮定して研究をした。ところが、この大切な「音の対応」が実は一部の言語で違っており、この三人はそれぞれ異なる理由づけをしている。これは、研究者の間で合意が見られるほどきちんとした理由づけができていない、ということなのである。それでは、ミズズイキが最初に居住をはじめた人々が持ち込んだ、という仮定そのものが違っているのではないだろうか。これをきちんと見ていくとどうなるのか。
 ひとつひとつの音の対応の詳しい説明などは省略するが、結論は次のようになった。
 なお、関連事項として栽培法やピットに関する語についても「発掘」を試みたが、残念ながら系統だって仮説を立てられるものは得られなかった。逆に言えば、ミズズイキの栽培がオセアニアに最初に居住した人々に持ち込まれたのではない、ということの裏づけにもなる。もしそうであれば、栽培方法も伝わったはずで、それに関する用語がもっと広範囲に見られてもよいからである。


考古学・生物学でのミズズイキの先史

 それではこの言語学に基づいた仮説は、他の研究分野での成果とどのように関係してくるのだろうか。考古学では、そもそも形になって残るものでなければ発掘しても出てこないため、イモが存在したというところまでは特定できるが、そのイモがどの種類であったのかまで特定するのは難しい。イモの痕跡があり、それがミズズイキであったと考えられる地域のひとつにヤップがある。ヤップにおけるミズズイキを示す語は、音の対応が違っているので、人が定住した後、ミクロネシア側からミズズイキを示す語が入ったと考えられ、考古学でイモを確認できる時期よりもずいぶん後に入ったらしいことがわかる。この場合、植物そのものは早い時期に存在したが、主要作物のひとつとしての積極的な栽培は、後になってミクロネシアの環礁島との文化接触により入ってきた、という可能性が考えられる。
 一方、植物学の分野では、ミズズイキの栽培種と親縁関係にある野生種が東南アジアのマレー半島とその周辺、またすこし離れてニューギニアからソロモン諸島にかけて分布していることまではわかっているが(図)、そこから現在の栽培種との関係を結びつけるにはいたっておらず、したがって栽培種のミズズイキがどちらの地域からオセアニアの島嶼部に入ったのかを解明するには至っていない。このように、他分野での研究成果は、言語学での成果を積極的に裏づけはしないが、矛盾する面もない、といったところだろうか。ただし、食物人類学の専門家には、現在のミクロネシア島嶼部におけるミズズイキの利用方法を加味した場合、言語学に基づいた伝播経緯は非常につじつまがあっている、というコメントをいただいた。


そしてミズズイキはいま

 このように、太平洋で人類史が始まった後、ある時期に持ち込まれ、一部の地域では重要な作物となったミズズイキ。日本人にはあまり馴染みがないが、オセアニアの先史における人々の暮らしを知るうえでは無視できない植物だ。えっ、肝心の「味」の話がなかったですって?聞くところでは、独特のエグ味があり、これを消すために何時間もかけてアク抜きをするという。確かに、簡単においしく調理できるものであれば、さんご礁の島々以外でももっと栽培されていてもよいはずだが、実際には多くの地域で「飢饉食」の扱いとなっている。そして、これまで火山島にしか調査に行っていない私は、ミズズイキが茂っているのは見たことがあっても食べたことはなく、おいしくてもそうでなくても一度は自分の舌で味わってみたい、と、ミクロネシアの環礁での調査の機会が訪れるのを心待ちにしている。

未出版