KIKUSAWA Ritsuko

散歩道(エッセイ集)

シリーズ・ことばを通して見る南太平洋 (2000-2001)
8. 「西洋化」と言語の関係

 最終回の今回は、まとめとして、ことばそのものの特徴ではなく、人々の暮らしとことばについてお話ししたいと思います。

 「学校教育は必ずしも母語で行われるわけではない」。これは、私が南太平洋の島々に調査に出かけて初めて知ったことの一つです。日本の学校ではふつう、日本語をつかいますね。教科書が書かれていることば(「標準日本語」、書きことば)と学校で先生と子供達が話すことば(各地域の方言、話しことば)は違いますが、私たち話者がそれを意識することはまれです。ところが、たとえばフィジーでは、オーストラリアなどからくる英語で書かれた教科書をつかいます。これは、フィジーの言語や文化が西洋に比べて劣っているからではありません。西洋風の生活や学校制度の導入にともない、子供達が学習しなくてはならない内容がかわったからです。口承伝承で歴史を記録し知恵を伝え自然環境と共存する生活が、書面で用件を伝達し機械をつかう生活にかわりつつあります.遠洋航海のためには、星の位置と潮の流れを知るかわりに、海図の読み方とエンジンや器機の操作のしかたが必要になったわけです。知識に優劣はありませんが、西洋現代社会では後者の方がより必要とされます。変化の度合いが大きく速度が速いので、日本での西洋化と異なり、新しい概念が現地のことばに翻訳・借用され吸収される時間があまりなかったということなのです。

 また、現地で話されている言語があまりにもたくさんあるために、学校をつくって集団教育をはじめるとなると、英語やフランス語などをつかったほうが問題が複雑化しなくてよい、というような状況も、とくにパプアニューギニアやヴァヌアツなどでみられるようです。

 日本のように母語で教育が受けられることとフィジーのように外国語をっかうこと、それぞれ利点・欠点があります。日本では、多くの人が義務教育をおえてから高校や大学に進学しますが、これも母国語で教育が受けられるおかげかもしれません。一方、日本で何かの専門家になっても、いざ国際社会に出て活躍しようとすると、ことばが大きな壁になります。初期の理解度を犠牲にしてでも学校教育を英語やフランス語で受けるメリットは、この壁がうすくなることでしょう。近年では、インターネットを通じて、誰でも簡単に海外の人達と交信できるようになりました。もはや外国人と話をするのは、専門家や外交官のみの世界ではないわけです.地理的に隔離されていた国々は優先的にインターネットの利用を進めており、太平洋の国々も例外ではありません。こう考えると、南太平洋での母語をつかわない学校教育も、今後は利点が大きくなってきそうです。

 第一回でお話したように、「変化」は言語の基本的な性質の一つです。西洋化に伴いさまざまな伝統文化が南太平洋のことばの中から消えつつあるのは、自然な現象といえるでしょう。けれども、心情的には、村のおばあちゃんに教えてもらった何百という植物や魚の名前を、同じ世代のフィジーからの学生が知らないと、やっぱり残念だと思ってしまうのです。でも、そういう私は、日本語になると母の半分も名前が言えないのですから話になりませんね。

 私達の時代に太平洋に存在した生活とそれを反映することばを記録に残すことが、南太平洋の次代に生きる人達へのささやかな貢献になれば、と思っています。読者のみなさまには長い間おつきあいいただき、どうもありがとうございました。  



2001.10『Vasa Lanumoana 日本ツバル友好協会ニュースレター』(44) 掲載