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関雄二アンデス考古学研究室


日本のアンデス調査50年

関 雄二

1958年一般調査
一般調査 左から3人目が泉靖一(1958年)

日本人がアンデス地帯で考古学調査を開始してから、今年(*注)はちょうど50年にあたる。戦後の海外調査の草分け的存在として、東京大学文化人類学教室が主宰する調査団が、欧米研究者の独壇場であったアンデスの地に足を踏み入れたのは1958年のことであった。

新参者の日本調査団が最初に行ったことは、地勢、植生、遺跡などを広範囲に見て回る一般調査であった。世界進出前のトヨタ自動車より寄贈された5台のランドクルーザーを操り、アンデス中を踏査したのである。こうして最初の集中発掘対象に選んだのが、ペルー北東高地に位置するコトシュ遺跡であり、60年代は、ここに精力を注ぐことになる。


コトシュ遺跡発掘
コトシュ遺跡の発掘(1960年)

アンデス文明の基礎が形成された時期を文字通り形成期(前2500~西暦紀元前後)とよぶが、コトシュ調査の当時、形成期の拠点は、巨大神殿と石彫で有名なチャビン・デ・ワンタル遺跡であり、ここから各地に文化が伝播したという見解が強かった。と同時に、チャビン遺跡はあまりに洗練されていたため、起源は別の場所にあるともいわれ、アマゾン地帯が有力な候補地となっていた。その意味で、アマゾン源流地帯に位置するコトシュ遺跡は格好の実験場であった。実際に、コトシュではチャビン様式の土器を検出したばかりでなく、さらに古い文化を確認し、日本調査団は起源論の最前線に躍り出たのである。



発掘中の泉 1963年
発掘中の泉(1963年)

なかでも最大の収穫は、交差した手を象った漆喰レリーフの神殿を発見したことであろう。土器が登場する以前の遺構であり、当初、古すぎると疑問視されたが、その後、同種の遺構が各地で発見されるに至り、評価は定着する。ペルーの国立博物館には、コトシュ特別室が設けられ、教科書から専門書に至るまでコトシュに言及しないものはない。遺跡に近いワヌコ市には記念碑が建てられ、通りには、調査を率いた泉靖一の名が冠せられた。

泉の死や大学紛争による中断を経て、調査が再開されたのは、70年代半ばであった。すでに関心は、起源よりも地域的多様性と社会発展過程へ、また調査拠点もコトシュよりさらに北の高地へと移った。やがて、大神殿遺跡クントゥル・ワシを80年代後半より手がけながら、コトシュ以来の成果をまとめ、理論化を図る現在のステージに入る。


コトシュ遺跡(1963年)
コトシュ遺跡(1963年)

この結果、到達したのが「神殿更新説」である。従来の文明史観では、経済が重視され、余剰生産物の発生が、権力や宗教的職能者、あるいは階層の発生の前提にあるとされてきたが、事態は逆であった。アンデスでは、神殿建設や更新が先にあり、これが労働統御、食糧増産、社会統合を生み出す、と日本調査団は唱えた。目下、わたしを含む現役の研究者は、「神殿更新説」の検証と新たな説明モデルの構築を目指し、調査を続けている。

こうした理論化を可能にしたのは、欧米では希な、長期の集中発掘にもとづく成果の蓄積であり、浅薄な競争を排してきた日本の研究制度であった。また、現地研究者ばかりでなく、遺跡を抱える地域住民との協力関係の構築を怠らなかった点も重要である。もちろん、これまで、遺跡の保存をめぐって、住民と現地政府との対立に巻き込まれたことも多々あった。そんな中、現在、遺跡博物館をたちあげ、地域住民が文化遺産の保存や活用に参加できるプロジェクトを推進している。50年という年月は、研究ばかりか、異文化の中で調査を行う意味を教えてくれた貴重な時間であったといえよう。

*注 2008.2.16.『朝日新聞』夕刊に掲載