文化遺産の人類学

文化遺産の人類学は、文化遺産そのものでなく、文化遺産をめぐる人びとの実践を記述・分析する学術分野です。こうした学問分野が提唱される背景には、1990年以降における文化遺産概念の拡大があります。

1990年代以前、文化遺産の典型は、建造物や考古学的遺跡など記念碑(モニュメント)と総称されるものでした。これは、ヨーロッパにおいてナショナリズムが発揚した19世紀末から20世紀にかけて定着した考えかたで、ヨーロッパ的かつキリスト教的な価値観を色濃く反映しています。ユネスコのもとで採択された世界遺産条約[1]も、その例外ではありません。1990年代になって冷戦が終結し、文化が国際政治の焦点[2]に躍りでたとき、ユネスコは世界遺産をとおした国際協調を目ざしましたが、逆にそのヨーロッパ中心主義を批判されることになりました。

思わぬ非難に直面したユネスコは、ふたつの大きな措置を講じました。ひとつは、1994年にグローバル・ストラテジー[3]を打ちだし、非ヨーロッパ諸国にあたらしいタイプの遺産を見いだすとともに、世界遺産の概念を多様化させて欧米中心の偏りを是正しようとしたことです。この結果、1992年に初めて定義された文化的景観のほかに、生きている遺産として人びとが現在も用いている建造物などなど、あらたなタイプの遺産カテゴリーが認められるようになりました。また、そのことと連動して、ユネスコは、現代の人びとが維持・発展させている生活文化を文化遺産として柔軟に運営するため、周辺住民をはじめとするコミュニティの参与を奨励しました。

ユネスコがとったもうひとつの措置は、顕著な普遍的価値を重視する世界遺産とはまったく異なった文化遺産行政を展開することです。2003年にユネスコ総会で採択された無形文化遺産条約[4]では、それぞれの文化遺産の価値はグローバル社会によって決められるのでなく、それを支える人びと自身によって決められることが定められています。ユネスコは無形文化遺産条約によって、生活文化を文化遺産とみなす方針を打ちだしたわけです。

文化遺産の概念は、モノから人へ、あるいは人びとの実践へと強調点を移しています。モノを保護するうえでは、それを支える人たちの協力が欠かせなくなりましたし、人びとの営みそのものを文化遺産として維持する視点も、必要になっています。世代を超えてこのように実践を維持していくためには、人びとの社会や文化に関する基礎研究が欠かせません。文化遺産の人類学は、従来の文化遺産学の視野が外に置いてきたこうした問題を、積極的に焦点化していきます。




1.世界遺産条約

正式名称は「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage)」。1972年の第17回ユネスコ総会で採択され、1975年に発効した。日本政府の受諾は1992年。世界文化遺産の定義として、第1条には次のように述べられている。

この条約の適用上、「文化遺産」とは、次のものをいう。


記念工作物
記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的物件又は構造物、銘文、洞窟住居並びにこれらの物件の集合体で、歴史上、美術上又は科学上顕著な普遍的価値を有するもの

建造物群
独立した又は連続した建造物群で、その建築性、均質性又は風景内における位置から、歴史上、美術上又は科学上顕著な普遍的価値を有するもの

遺跡
人工の所産又は人工と自然の結合の所産及び考古学的遺跡を含む区域で、歴史上、観賞上、民族学上又は人類学上顕著な普遍的価値を有するもの

2.あらたな国際政治の焦点

1980年代にユネスコを脱退したイギリスは1997年に、同じくアメリカは2003年にユネスコに復帰している。

3.グローバル・ストラテジー

正式名称は「世界遺産一覧表の代表性、均衡性、信用性のためのグローバル・ストラテジー(Global Strategy for a Representative, Balanced and Credible World Heritage List)」。遺産分布の地域的な偏りを正すため、世界遺産委員会が1994年に打ちだした戦略。

4.無形文化遺産条約

正式名称は「無形文化遺産の保護に関する条約(Convention for the Safeguarding of the Intangible Cultural Heritage)」。2003年の第32回ユネスコ総会で採択され、2006年に発効した。日本政府の受諾は2004年。無形文化遺産の定義として、第2条には次のように述べられている。

「無形文化遺産」とは、慣習、描写、表現、知識及び技術並びにそれらに関連する器具、物品、加工品及び文化的空間であって、社会、集団及び場合によっては個人が自己の文化遺産の一部として認めるものをいう。この無形文化遺産は、世代から世代へと伝承され、社会及び集団が自己の環境、自然との相互作用及び歴史に対応して絶えず再現し、かつ、当該社会及び集団に同一性及び継続性の認識を与えることにより、文化の多様性及び人類の創造性に対する尊重を助長するものである。