KIKUSAWA Ritsuko

散歩道(エッセイ集)

フィジー

■民族と文化

 フィジーはメラネシア文化とポリネシア文化が融合する地域であり、とくに東部地域では古くからトンガとの交流がさかんであった。多神教を崇拝し自給自足を原則とする伝統的生活様式は、 19世紀中ごろにはじまったキリスト教の布教、貨幣経済の導入、西洋式学校制度の普及などのいわゆる近代化により、現在もなお大きな変化の途上にある。
 政治的には1874年にイギリス植民地となってから、 1970年独立、英連邦フィジー自治領を経て1987年にフィジー共和国(Republic of Fiji)となった。領土内には本島北にポリネシア系の文化・言語を持つ民族の暮らすロトゥーマ島をふくむ。英植民地時代の労働移民の結果、 1995年現在人口約70万人のうち半数近くをインド系フィジー人が占めており、本島西部および都市部を中心に独自の生活様式を守って生活している。


【伝統行事と遊戯】

 伝統的な暮らしにおいては、村をあげておこなうさまざまな行事がそのつど村の長(tuiまたはturaga)により招集されたが、そのなかにはスポーツあるいはゲームの要素をふくむものもみられた。ここで紹介する槍投げとミカン転がしは、いずれも重要な年中行事とみなされていたもので、伝統的な意味での遊び(qito)には分類されない。いずれも19世紀中ごろまでおこなわれていたらしいが、現在では口承に残るのみである。

[槍投げ(veitiqa)] フィジーでもっとも盛大におこなわれた伝統的スポーツで、棒の先に重りをつけた槍(itiqa)を地面に投げつけてバウンドさせ、次に着地するまでの飛距離を競ったもの。ゲームに用いられた槍は、 一尋の棒の先に長さ15cm 程度、もっとも太い部分の直径5cm程度の木でできた紡錘形の重り(ulutoa)をつけたもので、この競技のために特別に用意された。競技場は専用の場所が恒常的に確保され、幅10mたらず、長さ300m程度で、表面は砂で覆って固めてあるか草原であった。地域によっては競技場の端に小山がつくってあり、そこに槍を投げつけてバウンドさせた(図1、図2)。
 競技は2チームでおこなわれた。まず、片方のチームの競技者が全員それぞれ投げた後、もう一方のチームの競技者が全員投げ、新しい記録が出なくなるまでそれがくり返された。勝敗はどれだけ遠くへ飛ばせるかによって判定され、もっとも遠くに投げた者の所属するチームの勝ちとされた。 
 この行事は通常、近隣の村対抗でおこなわれ、各村から競技者以外の人びともこの行事に参加するために何時間もかけて開催地まで赴くなど、地域の社交の意味も大きかった。また、競技者である男性は競技前に各々祖先の墓を清めて勝利を祈るなど、人びとがこの競技にかける熱意もまたたいへんなものであったようである。
 なお、行事としてはおこなわれなくなってからも、この競技で用いられた槍を摸してつくったものを投げる子どもの遊びが各地でみられたという。

[ミカン転がし(vāqiqimoli)] 花嫁・花婿選びの行事。槍投げとは異なり単一の村内での行事であった。まず、決まった手順にしたがって人びとが集まった後、村の男性と女性が一列ずつ平行に列をつくり、向かい合って立つ。それぞれ1つずつ手に持ったミカンを意中の相手に向かって転がした。自分のほうにミカンが転がってきたときは、相手との結婚に同意するならそのミカンを拾い上げ、不同意なら転がし返した。


【遊び(qito)】

 遊び(qito)は、家事労働の分担が比較的少ない子どもや未婚の青年たちが担い手である。子どもの遊び(qito-ni-gone)、子守遊び(qito-ni-veimeiqito-ni-gonelalai)、青年の遊び(qito-ni-tagane)などと呼ばれるものがあるが、かならずしもはっきりとした分類の基準があるわけではない。以下、具体的な遊びの内容について便宜上の分類にしたがって述べる。

[唄と手振り] フィジーでは、伝統的に屋内では姿勢を低く保つことが礼儀とされ、 遊びも床の上に座っておこなうものが多くみられる。座ったまま唄に簡単な手振りをつけてうたう遊びは種類が豊富である。そのなかには、子守唄とともに主として小さな子どもをおとなしく遊ばせておくためのもの、たとえば子守をしている者が、親指と小指を突き出す形で手を握り、そのまま突き出した指を唄に合わせて拍子をとるように交互に地面におろす遊び(teiteibalagi)などがある。また、子どもどうし2人で向かい合って座り、唄に合わせて手を互いにたたき合わせたり拍手をしたりする日本でいえば「ミカンの花」や「アルプス一万尺」のような遊び(esitasimolo)もある。さらに、数人の子どもが輪になって座り、突き出した人差し指を順に握って(dudumoto)、あるいはお互いの手の甲をつねるようにして(kinikini-cula)手の塔をつくって唄をうたい、うたい終わると同時にいちばん下になっている者が握られている指を抜いていちばん上の者の指を握る、あるいはつねられている手をはずしていちばん上の者の手をつねる、という遊びも広くみられる(図3)。
 いずれの場合も、最初は全員が床に座っている状態で遊びはじめ、唄をくり返して手の高さが高くなるにつれてじょじょに立ち上がっていく。完全に立ち上がってしまったら、また座った状態からはじめる。

[貝・木の実などを用いる遊び] 貝や木の実など、自然の材料を利用した遊びも多くみられる。
 床に座り、 5つの小石を投げ上げて片手の甲などで受け、こぼれ落ちたものを上を向いたまま手探りで順に拾っていく遊び(didiqo)は現在でもよくみられる。受け止める方法は、最初は手の甲で、 2回目は手首を外側に返して上を向いた手のひらで受けるなど順を追ってむずかしくなる。手探りで拾う方法も、 1回目は手の甲で受けた小石のうちの1つを投げ上げ、それが落ちてくる前に床に落ちているものを拾う(床に落ちているものを拾った後、投げ上げた小石も受け止めなくてはならない)、2回目以降は投げ上げる小石の数が1つずつ増えるなどと、じょじょにむずかしくなる。 5つの小石を投げ上げたときに受けたものが1つもなかったり、落ちたものを手探りで拾うときに投げ上げた石を受け止め損なうと失格である。数人が輪になって座り、 1組の小石を順にまわして進度を競って遊ぶことが多い。
 この遊びとならび、 4つの貝殻を決まりにしたがってはじいてゆき、順に得点を競うおはじきのような遊び(tajiまたはsela)も、広い年齢層の子どもたちがいまでも楽しんでいる遊びのひとつである。そのほか、綾取りや丸い木の実を使ってのお手玉もみられる。
 木や草を利用した玩具では、ココナツの葉でつくった風車やヘビ、薄く削った木の板と木の葉を用いてつくったおもちゃの舟などをいまでもときおり目にすることがある(図4)。また、記録によると20世紀はじめには木を細工してつくった水鉄砲などもみられたらしい。

[多人数での屋外での遊び] ] 多人数で広場や空き地を利用しておこなう遊びもある。陣取り(buka)、相撲や2人が腹ばいになっておこなう腕相撲、太い木の蔓を利用した綱引きやブランコ、ケンケン遊び、馬跳び、鬼ごっこなどが、 20世紀初頭の記録にみられる。石を自分の背中からまわして投げ、 10〜20mくらい離れた木の杭や岩の上に乗せた小石を落として遊ぶ石投げ(veiteqe)の技術などは青年たちが好んで競ったものであった。また、山積みにしたミカンを投げてぶつけ合う遊び、チームの1人をござにくるんで隠し、ほかのチームが隠されているのはだれかを当てるというゲームもあった。現在では、ラグビーやネットボールなど西洋からはいった遊びがさかんである。


【その他の遊び】

  以上のほかに、たとえば畑仕事の帰りに川で水浴びをする青年たちが水中鬼ごっこをはじめたり、おっかいに行く子どもたちが道端の草を摘みとって草笛をつくって鳴らしながら歩く、また隣り村まで海岸伝いに水切りをしながら往復するなど、とくに決まった名称もなくとりたてて遊びであるとも認識されていないが、毎日の生活においてちょっとした娯楽になっているものがある。ここで紹介する鉈投げも、そういったもののひとつである。

[鉈投げ] フィジーでは畑へ行くときには大鉈を持ち歩くのがふつうであるが、畑仕事からの帰り道での青年たちの遊びに、順にそれぞれこの鉈を木に投げつけて突き立てる技術を競うものがある。まず、 1人が道端の木に鉈を投げつけると同時に上、または下を指定する。投げた鉈は地面と平行に木に刺さらなくてはならない。つづいて、ほかの者が「上」の場合には最初の鉈より上側に、 「下」の場合は下側に、順に投げつける。上ならもっとも高い場所、下ならもっとも低い場所に刺した者が1点を得る。これを繰り返し、村に到着した時点での得点の高さを競う。


参考文献

Hocart, A.M., 1971, Lau Islands, Fiji. Bernice P. Bishop Museum Bulletin 62, New York: Kraus  Reprint Co. Reprint. [First published by the  Museum in 1929.]
Rougler Rev. E., 1915, "Fijian dances and  Games," Transaction of Fijian Society, 16-34.
William, Thomas. 1982, Fiji and the Fijians. Vol. I: The islands and their inhabitants, Suva: Fiji Museum, Reprint. [First published in London in 1858.]