KIKUSAWA Ritsuko

散歩道(エッセイ集)

調査こぼればなし(40)
「日本的」な料理のしかた

 現地調査先でとても困るリクエストの一つに「日本料理をつくってくれ」というものがある。もちろん、ないトイレで用を足すことや、衆人環視のなかでシャワーもそれなりに困るけれど、そんなことは自分が慣れてしまいさえすれば解決がつく。ところがいくら料理が得意でも、ないものを料理することはできない。 「困る」次元がそもそも違うのである。私のように現地でホームステイをすることが多いと、相手の期待を考えていやだともいえず、さりとてよいアイディアがあるわけでもないという状態で、なんとなく気がとがめるまま日が経ってしまうことが多い。

 ところがフィジーで調査をしていたある日のこと、村人の一人がキャベツを持ってきた。キャベツは村での一般的な食べ物ではない。日本で食べるものだというから、といって、たまたまためしに栽培していたもののなかから、よさそうなものをわざわざ選んで届けてくれたのである。太平洋の島々では食べものが日本ととっても違う。いわゆる「主食」は、タロイモ、ヤムイモ、カッサバ、クッキングバナナ、パンの実などで、「おかず」は手に入った時にはさかな、そうでなければ何もなしである。ときどきタロの葉や茎を調理したもの。長く村に滞在すると野菜がとても食べたくなることが多いから、キャベツというのは偶然ながら、とても気のきいた贈り物であったのである。

 さて、家の「おかあさん」はキャベツなんてどうやって食べればいいのかわからないと言い出し、私は考えもないまま「うん、じゃ、何かつくってみる」と言ってしまった。さあ、困った。村で手に入るものを用いてつくれる、キャベツを用いた「日本料理」には何があるか。無理をせずに手に入るのは、ココナツと塩、多少の油である。そして、うらに行けば木にいっぱいなっているライム。畑に行けば手に入るチリ。もちろん、魚が手にはいるのを待って一緒に煮ることもできるけれど、それでは村の普段の食事とあまり変わらない。

 いろいろ考えたすえ、私は浅漬けをつくることを思いついた。キャベツをせん切りにし、塩をふり、ライムをしぼって、上に一抱えほどの大きな石をのせる。待つことしばし、水分が出だして、ちょうどよい食べ頃となった。村の人には好評。やわらかくておいしい、という。お世辞で言っているのではない証拠にみなが作り方を聞きはじめた。子供に私が「料理」につかった大きな石を大事においておくように言いつけてさえいる。役目を無事に果たした私は、ほっとした。

 ところが、である。次の日の夕方、台所の方で私を呼ぶ声がする。行ってみると「おかあさん」が手にシャコガイの身を持っている。シャコガイというのは二枚貝の一種で、食用にするものは、だいたい差し渡し30センチメートルくらいであることが多い。ものが大きいから、貝よりも、特大サイズの生のタコやイカを何ハイか束にしたものを思い浮かべていただいたほうが現実の形にやや近いかもしれない。これをフィジーでは生で食べる。台所に呼ばれ、シャコガイを見ていぶかしげな顔をした私に「おかあさん」が尋ねた。 「これも上に石をのせておけばおいしくなるかな?」

 さて、石をのせたキャベツの味を知った彼らの「日本料理」に対する興味と期待は、さらに大きくなった。日本ではさかなを生で食べると聞いた。一体、どうやって調理するのだろうか。そして再び断りそびれた私は、珊瑚礁のさかなを三枚におろす、というこんどは大失敗をするはめになってしまったのである。珊瑚礁のさかなは骨がとてもかたい。ちいさなチョウチョウウオやエンジェルフィッシュなどでも、どんなに時間をかけて唐あげにしても絶対に骨がやわらかくはならない。 (もちろん、からあげというのも、私が知恵をしぼって考え出した「日本料理」の一つである。ただし、これは貴重な油をたくさん使うので、好評だったが普及しなかった。)そのうえフィジーの村には「よく砥いだ包丁」なんてものは存在しない。したがってどんなに頑張っても、珊瑚礁のさかなは絶対に、サバのようにつるんと三枚におりてくれはしないのである。そしてさかなは、胴から身をそがれたぶざまな格好で「おかあさん」の料理を待つことになった。彼女は「身」の部分を私のためにソテーにしてくれ、残りを煮て家族に提供した。生まれてからこのかた、これほど恐縮して食べた食事はない。もっとも現地の人は頭や骨の部分を好むから、本当はそれはそれでよかったのだけれど。

 それにしても、と、この大失敗の後、私は考えた。無から有を作り出すのがフィールドワーカーの腕の見せどころだとは言え、食材のちがいは、なんと言ったって明らかなのである。何も気をつかっていい子ぶらなくても、できないことはできないと言えばいいじゃないか。そう考えているところへまた、台所から声がかかる。‥‥「うん、じゃ、やってみようかな…」

 ‥‥ああ、また、言ってしまった。今度は吉と出るか、凶と出るか。でも、村の人たちは、次に私が来るのはいつかいつかと心待ちにしていてくれるから、今のところは「ノー」と言えない私の態度もそんなに悪くはないみたいだ、と、自分をなぐさめている。次に村を訪ねるときには、きっと、畑にキャベツがいっぱい育っていることだろう。



『国際学術調査ニュースレター』 34: 18-19. 掲載