KIKUSAWA Ritsuko

散歩道(エッセイ集)

言語学オリンピック in ライデン―オランダ・ライデンより


「国際言語学オリンピック(International Linguistic Olympiad)は国際科学オリンピックのひとつであり、一番新しい競技である。主に言語学の分野を出題され、制限時間は6時間。主な出題ジャンルは音声学・形態論・意味論など。参加国は東欧や北欧が中心である。」(日本語版ウィキペディア)

「国際科学オリンピック(International Science Olympiads)とは、世界中の中等教育課程にある生徒(中学生・高校生)を対象にした科学技術に関する国際コンテストであり、以下の大会が毎年開催されている: 国際数学オリンピック(IMO、1959年~)、国際物理オリンピック(IPhO、1967年~)、国際化学オリンピック(IChO、1968年~)、国際情報オリンピック(IOI、1989年~)、国際生物学オリンピック(IBO、1990年~)、国際哲学オリンピック(IPO、1993年~)、国際天文学オリンピック(IAO、1996年~)、国際地理オリンピック(IGO、1996年~)、国際言語学オリンピック(ILO、2003年~)」(日本語版ウィキペディアより抜粋)


 2007年2月10日、開始1時間前の午前11時半。ライデン大学人文学部リプシウス棟入り口には、すでに高校生や引率の先生の姿がちらほら。昨年までの70-80名に対し今年の登録人数はなんと150名(実参加者120名)、主催者は嬉しい悲鳴をあげていた。
 オランダでの言語学オリンピックは今年で7回目を迎える。ライデン大学文学部・印欧語比較言語学科教授のサーシャ (Dr. Alexander Lubotsky) は、自身が高校生であった70年代にロシア大会に参加。これを2000年にオランダに紹介したという。現在は、おなじく同学科で教えるミヒル (Dr. Michiel de Vaan) が機動力となっていて、各国への言語学オリンピックの普及も積極的に奨励している。
 各地域大会の上位4名が出場権を得る国際オリンピックは2007年で4回目を迎え、ロシアのペテルスブルグ(St. Petersburg)で開催される。渡航費は所属国の主催者が、現地での滞在費などは国際大会の主催者がカバーすることになっているそうだ。ちなみにオランダ代表チームは、2005年の国際大会で優勝している。
 オランダは国内からならいちばん遠いところからきても電車3時間だから、このライデン大会はイコール全国大会となっている。ロシアなどでは地域大会がいくつかあって、それぞれの地域大会から直接、国際大会に代表をおくることができるようになっているそうだ。アメリカでは、インターネットによって全国から参加できるようにしているらしい。

言語学オリンピックって・・・?

 科学オリンピックのことは耳にはしていたけれど、あまり自分の専門分野と関係づけて考えたことがなかった。日本からは国際物理オリンピックなどには参加していて、国内大会は「物理チャレンジ」と呼ばれる。事務局は「物理チャレンジ・オリンピック委員会」。
 「数学とか物理ならわかるけど、人文科学系の分野を国際大会にするのは難しくない? 言葉を訳しただけで意味がかわっちゃうじゃない。参加者の文化的背景も違うし」とは、このオリンピックについて耳にしたベルギー出身、何ヶ国語も操って日常生活をおくる考古学専門の同僚。おっしゃるとおり。実際に、これが問題を作成するときにひとつの難しさにもなっている、とミヒルは言う。
 国際大会の問題は、たとえば2006年ならブルガリア語・オランダ語・英語・エストニア語・フィンランド語・リトアニア語・ポーランド語・ロシア語・セルビア語(以上、abc順)の9ヶ国語で作成されている。これは、問題文で使用する言語によってハンディが出ることを避けるため。けれどももちろん、言語によって構造や用法が異なるから、翻訳することによって質問の性質そのものが変わってしまうことも珍しくない。そのような事態ができるだけ生じないように問題を作成、もしくは、翻訳をする難しさが出題者側には常につきまとう。
 さて、そんな主催者側の苦労や思惑などとは関係なく、リプシウス棟のラウンジは高校生や引率の先生方でいっぱいになってきた。そうこうするうちに時間がきて、すでに問題が机の上に配布されている「試験会場」ならぬ「オリンピック会場」に入場、文学部長の簡単な歓迎と励ましの言葉に続き、ミヒルが問題の進め方について説明。そして回答開始! 監督者が二名部屋に常駐しているところなどは日本の入試風景にちょっと似ている。私自身はここで退散、自分の研究室にもどって問題を解いてみたが、これがなかなか手ごたえがある。予定している休み時間のインタビューに備えて「ちょっと見ておく」つもりが、つい夢中になってしまった。

休み時間

 ロシア大会では全部で6つの問題を最初に渡してしまい、3時間ノンストップの休憩なしなのだそうだが、オランダ大会では3題ずつの前半と後半にわけて間に30分の休憩が入る。
—前半どうだった?
 この質問にはみんなが声をそろえて「難しかった~」
—どの問題が一番おもしろかった?
これも口をそろえて「一番目!!」
一番目というのは、マレー語の文字の問題(図参照)。与えられた単語とラテン文字での「ふりがな」から、どのような仕組みの書記法であるかを割り出し、マレー文字で書いてあるオランダ語の単語が何かを解読したりするもの。
 これに対して二つ目は数の体系の仕組みを解明するもので、アジア・エスキモー語ナウカ方言の数字の読み方が並んでいる問題。アルファベットがずらずら並んでいて目がちかちかするけれど、オランダ語みたいにひとつの単語のなかに文字がたくさんあるのを見て育っていたらなんてことないのかしら、などと勝手に思ったりしたのだけれど、つらいのはどうやら彼らにとっても同じことのよう。三番目はオランダ語の意味記述の問題で、「一番簡単だったけど、つまらなかった。」普通は自分の言語を客観的に分析するのが難しいんだけどな。ほんとにできてるのかどうか、あとで採点者に聞いてみよう・・・。

言語学の普及?

 さて、言語学者としては、この行事がいかに高校生の間の言語学への関心に結びついているかについて、考えずにはいられない。そこで再びインタビュー。
—どうして参加しようと思ったの?
「先生からすすめられてやってみたら面白くて、はまっちゃった」「パズルを解くみたいで楽しい」
—大学に行って何を専攻したいか、もう考えてる?
「私は数学科がいいな」「私は物理」「オランダ文学」
—言語学には興味ある?
「別に・・・」「・・・(私)」
—外国語はどう? 何か勉強してみたい言葉ってある?
「ううん、別に」「私はオランダ語だけで充分」「マヤ語とか、インカ帝国の言語ならやってみたいな」「数学の方が面白いよ」「数学とか物理の方がうんといい」「・・・(私)」
—高校で英語以外に何か外国語を勉強してるの?
「フランス語とドイツ語。ラテン語とギリシャ語はどちらか選択、それにスペイン語もとろうと思ったらとれるよ。」
—へえ、たくさんあるね。でもヨーロッパ言語ばっかりだねぇ。
「うん、まあね・・・。でもどうしてオランダにいるの?」
と、ここで私の方が逆インタビューされるはめになった。
—私は言語学者なんだよ。太平洋の言葉のことをいろいろ調べてるの。ライデン大学の比較言語学科の人たちが私のしてることに興味をもってくれて、一年間、一緒に研究しないかって誘ってもらったんだよ。
「一年も。いいね」
—うん、楽しい。
— 「オランダ語、話せるの?」
—少しならね。簡単なことだったら言えるようになったよ。
「へえ。こっちにきてどれくらいになるの?」
—12月にきたから、二ヶ月半かな。
 そうこうするうちに、後半の開始時間が近づいてきた。後半は文法や単語の構成などに関する問題だ。
—後半はどう? 準備はばっちり?
 最後になんとなく口からでたこの質問、回答にばらつきが出て面白かった。
「前半でもこんなだったら、後半はもうだめ・・・」「後半の問題はややこしいんだもん・・・もうやる気しない」という回答から「後半の問題の方が楽勝だよ。論理的にやればいいだけだもん。」「後半の方がいろいろな文を見ることができて面白いよ」というものまで、いろいろ。先ほどの数学大好きから文学少女までまさに予想通りの答えが返ってきて、なるほど適性というのはこういうものか、と感心してしまった。写真を撮り、インタービューに協力してくれたお礼を言ってそれでは後半戦、Veel Success!

オランダの言語事情と言語学

 ちなみに、生徒さんたちへのインタビューは英語で行った。自分たちの間のおしゃべりも試験の間の指示も全部オランダ語なのは、日本での日本語と同じ。なのに、「ちょっと質問していい?」といきなり英語で話しかけられて驚きもせずにすらすら答え、さらに質問までし返してみせるのが日本とは様子の違うところ。興味がないっていうけれど、「外国語」についてわざわざ考えない、というのがその正確な解釈なのかもしれない。「(古)マヤ語とかインカ語なら習ってみたいな」といった生徒さんは、この言語学オリンピックについて、「問題に出る言葉に自分の知ってるのと全然違う現象があるとすごく面白い」とコメントしていた。日本で育った私にとってのヨーロッパ滞在の魅力は、たくさんの言語の系統の近さを日常生活で実感できることだけれど、そんな環境が日常であるオランダの高校生が言語学に魅力を感じるとしたら、むしろ「違う」ものに対する驚きなのかな。
 それにしても、いくらオランダの高校生が流暢に英語を操ると言ったって、もしこのオリンピックがなかったら私がここにいる理由をこんなにさらっと説明できただろうか。何語で話していても、普通はまず言語学という分野があること、それがどんなものであるのか、それだけのことを説明するのが大変なのに。言語学オリンピックの存在が言語学という分野を一般に知ってもらうのに役立っていると思うのは、あながち私のひいきめだとも思えない。事務局によると、昨年はライデン大学の言語学専攻希望者数が倍になったとか。関係者は「どうしてなんだか」とあくまで謙虚だが、開催7年目、そろそろ二人の言語学者が蒔いた種が芽を出しはじめたのでは、と思うのは、あまりに短絡的・楽観的すぎるだろうか。

言語学オリンピックの将来

 終了後、取材でお世話になった事務局にお礼をいって出ようとしたら「何に出す報告なの?」という質問が飛んできた。簡単に事情を説明したあと「日本にはまだないからね」といったら、「まだ、ね」という明るい笑い声。近い将来、日本からも言語学オリンピックに参加することができるようになるのだろうか。
 単民族単言語国家というラベルを貼られがちな日本にも、実際にはいろいろな言葉を話す人たちが住んできたし、ますます多様になってきてもいる。その中には、母国で話していた自分の言語、地域の共通語、さらに国の共通語と教育言語(英語・フランス語など)に加えて日本語を話す人も珍しくない。一方で、外国語といえばNHKの語学講座にあるものの存在しか知らなくて、日本語は「かわった言語」なのだと信じている人も少なくはない。実際には世界に何千もある言語のひとつに過ぎず、ユニークな面もあれば、とても「ふつう」である面もあるのに。
 言語学オリンピックを日本で開催することができたら。世界にたくさんある言語のことを、その言葉を話す人たちの存在を、高校生に、そのまわりの人たちに、少しは伝えられるかもしれない。それは、「言語学」の存在を知ってもらうことよりも、言語学科に学生をたくさん集めることよりも、もっともっと大事なことであるような気がしてきた。

参考
第四回(2006年)国際言語学オリンピックウェブサイト[英語、他]
http://www.olympiaadid.ut.ee/ilo4/
オランダ言語学オリンピックウェブサイト[オランダ語]
http://www.olympiade.leidenuniv.nl/
北米(カナダ・アメリカ合衆国・メキシコ)言語学オリンピック [英語]
http://www.namclo.org
『月刊言語』2000年10月号掲載の「言語学オリンピック」に関する記事[日本語]
http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/intling/olympic.html



2007. 『民博通信』No.119 掲載