KIKUSAWA Ritsuko

散歩道(エッセイ集)

新入所員自己紹介
「なまえ」について

 世界ではいろいろな言語が話されており、いろいろな文化を持つ民族が暮らしているけれど、どの地域でどの言語の中で育った人でも持っているのが「なまえ」ではないだろうか。ただし命名のしかたは様々だと聞いた。日本では漢字を二つ組み合わせるなど、音そのものが聞き慣れたものであってもなんとなく新しい要素が加わるが、祖父母などの名前をそのままつけるという社会も多いようだし、生まれた場所の地名や生まれた年の出来事、ひいては夫への不満をそのまま生まれた子供の名前にしてしまう社会もあるらしい。

 「りつこ」というのは人を困らせることの多い名前である。例えば相手が英語のネイティブだったとする。まず語頭の「り」は英語のriで妥協することにする。本当は「り」であって、riでもliでもないのだけれど仕方がない。ここは日本人の耳になって我慢する。難関となるのは「つ」である。たいてい「チ」とか「トゥ」とか「ス」とかいう音になってしまう。この場合「こ」については問題ないことが多い。

 語末に[ts]を持つ言語が話されているバヌアツの村では「ツ」の母音を無声化し、そのあと心持ちポーズをおいて言ってみた。すると、確かに現地の人には多少発音しやすいようだったのだが、私は関西育ち、「りつこ」の「つ」のuは、たとえ前後の子音が何であれ絶対に無声化してはいけないのである。それを自分でさっさと変えてしまったというのはどうにも気分が悪かった。

 そしてフィジーの場合にはもっと大変である。初めて調査にいった時、綴りを説明するつもりでついうっかりriをフィジー語の正書法通り巻き舌で発音してしまい、それが前鼻音化した巻き舌の[nr]に聞こえてしまったらしい。「つ」については英語の話者と事情は同じ、そして私の村ではkはすべて[x]で発音されるものだからkoは「こ」というよりは「ほ」である。そういうわけで、わたしは「んりっちほう!」という、どこの国から来たのだかわからない名前で呼ばれることになってしまったのである。

 ところが、フィジー人の(言語学者ではない)友人にひとりだけ「リツコ」と発音してくれる友人がいる。私にとっては姉のような存在である。ある時彼女に子供ができ、私の名前をつけたいという。合意を得て喜んで病院へ行ったのはよかったが、生まれて来たのは男の子だった。一週間ばかり名前がなかった彼はとうとう私の親戚の一人の名前をもらうことになり、かくしてフィジーに「カンゾウちゃん」という「甥」ができた。

 ところで、「カンゾウちゃん」のお父さんはインド系のフィジー人である。彼には「ぞ」の発音ができない。「カンゾウちゃん」は「カンジョウ」(実際の発音により近くするために、「カ」にアクセントを置いて英語風に読んで欲しい。)になってしまった。

 呼ばれる側のこだわりはともかくとして、発音しにくいということは覚えにくいということなのである。ハワイではいろいろな国から来た友達が皆、一生懸命に名前を覚えてくれた。苦労して名前を覚えてくれた人とは不思議に長い良い付き合いになる。他方、ニックネームを考えついてそのプロセスを省略してしまった人とは、その時親しいようでも離れるとなぜか疎遠になってしまう。

 毎日の暮らしの中で、現地調査で、留学先で、いろいろな人にいろいろな発音で「りつこ」と呼んでもらう度に、生まれた時には両親の思い入れを除けば単なるラベルに過ぎなかった「律子」という名前は、人との出会いの歴史を蓄積してどんどん膨らんでゆく。そんな私の名前は、これから十年後、二十年後、三十年後にどんなことを語っくれるだろうか。その時その時に「リツコ」っていい名前だなと自分で思うことができれば、そして思ってもらえればいいな、と思う。

『通信』第84号掲載