KIKUSAWA Ritsuko

散歩道(エッセイ集)

先史オセアニアの暮らしと「タロイモ」

 ミクロネシアとポリネシアの島々には現在、600万人にものぼる人々が生活しているが、3000年と少しさかのぼると、ここはどこも無人島だった。手漕ぎの舟で家畜を連れて到着し、植物を植えて生活をはじめたのはオーストロネシアンと呼ばれるひとびとである。オーストロネシアンたちは、台湾からフィリピンを南下し、インドネシア、ニューギニアを経て太平洋全域に広がった。ミクロネシア地域にはニューギニア島嶼部から、ポリネシア地域にはフィジー経由でトンガ・サモアを経て四方に広がったことが知られている(地図1)。
太平洋の島々に人類が居住をはじめたのは漂着の結果だとされた時期もあったが、現在ではそれとは反対に、非常に高度な航海技術を持った人々が意図して島から島へと移住を続けたためであると考えられている。単に「漂着」した舟に、生存に必要な物資や人口を保つのに必要なメンバー(つまり女性)が「偶然」乗っていた、ということはあり得ないからである。
移住を決心したオセアニアの先史人たちは、新しい生活に備えて舟にたくさんの荷物を積み込んだに違いない。現代の私たちなら足りないものは移った先でお金を出して調達すればよいが、オセアニア先史の人々の場合にはそういうわけにはいかない。なにせ、これまで人が住んだことのない土地へ行こうというのである。お店どころか、慣れない自然環境を利用してゼロから居住地を開拓するのだから予期せぬ困難に直面することも考えられた。そんな、言ってみればフロンティアへの引越しのために舟に積み込まれたものには何があったのだろうか。
考古学の研究によりわかっているのは、まず、家畜の基本三点セットとでもいうべきイヌ、ブタ、そしてニワトリが積み込まれたであろうこと。ブタは儀礼のため、また財として重要な役割を持つ社会が多いし、ニワトリは卵や食用に、そしてイヌは狩りまたは食用にと、地域によって用法に幾分の差はあるにしても、オセアニアの社会では現在でも欠かせない存在である。骨などの形が残るから、発掘することで考古学的にその存在を確認することができ、また人間によってオセアニアの島々に持ち込まれたこともわかっている。舟に積みこまれた荷物には、加えて、ヤムイモやタロイモ(サトイモ)などの栽培植物類があったと思われる。こちらもオセアニアの伝統社会では、食料としてのみではなく儀礼や行事などにおいても重要な役割をはたしてきたからである。ところが、植物は一般に動物類に比べて遺物が残りにくく、その存在や伝播ルートを考古学的に証明するのが難しい。ましてやタロイモとなると、でんぷん質がいったん地中に埋まると分解されてしまうから、一段と困難となる。
それならちょっと発想を転換して、タロイモを示す言葉を分析してみることにしたらどうだろうか。実は、先史研究においては、形があまり残らないものを対象とする場合、言葉が重要な役割を果たす。対象物を指し示す語を比べて分析することで、過去に存在した(であろう)語彙を「再建」することができるからである。いってみれば、言葉を対象とした「発掘」である。この発掘が成功すると、植物に関わらず、社会組織だとか、親族体系だとかいった、ものという形で残らない先史について知ることができるのである。このような研究をする分野を比較言語学、または歴史言語学といい、言葉を研究する学問である言語学の一分野となっている。


オセアニアのサトイモ科食用植物

 タロイモという語はサトイモ科の植物の一般名称としてよく使われる。写真は、このサトイモ科の食用植物の中でオセアニアで伝統的に主食として利用されてきたものを示しており、順に、(狭義の)タロイモ、クワズイモ、そしてミズズイキという。慣れないと全部同じに見えるが、日常の暮らしの中でこの三つを区別するのはそう難しくはない。実際、オセアニアの言語では、これらの三つにはそれぞれ違う名前がついていてきちんと区別されているのが一般的だ。たとえば、フィジー語では(狭義の)タロイモ、クワズイモ、ミズズイキの順にンダロ(dalo)、ヴィア(via)、ヴィアカウ(viakau)、 トンガ語ではタロ(talo)、カペ(kape)、プラカ(pulaka) といった具合である。
三つのサトイモ科の植物は形の違いだけでなく生育条件、つまりどのような環境を好むかが異なっており、これを反映して地域によってどれが主要作物となっているかが違う。私がよく調査に行っていたフィジーの村ではクワズイモやミズズイキはほとんど食べなかったが、トンガやサモアなどではクワズイモがタロイモと同じくらい重要だ。また、ミクロネシアやポリネシアの環礁島ではミズズイキが主要根栽作物となっている。
一般にどの地域でも、その土地でよく利用されるものはさらに細かい種類に分かれていて、それぞれに名前がついている。たとえば、フィジーの村でタロイモの名前を調べると30種類くらいは簡単に集まってしまう。日本語には、サトイモ(コイモ)、ヤツガシラ、それに最近ではセ激xスなんていうのもあるが、はじめて調査に行ったときにちょうどこれにあたるような名前が二十も三十もごろごろと出てくるのを書き取るはめになった。タロイモとはまだあまり馴染みのなかった私には、どうみても、この二十も三十もあるタロイモが全部同じにしか見えない。これではタロイモの名前を調べても記録ができないではないか。ところが何度も村に出入りしタロイモを観察しているうちに、これらのタロイモが今度はどうみても違うものにしか見えなくなるから、人間の認知能力というのは不思議だ。
話がすこしそれたが、同様に、クワズイモの消費が多いトンガにはクワズイモの種類がたくさんあってそれぞれに名前がついているし、ミクロネシアでは当然、ミズズイキの種類がたくさんみられる、ということになる。


舟に乗ったタロイモ

 これらタロイモは三つともオセアニアの人たちの暮らしに存在したのだろうか。
三つのサトイモ科の食用植物のうち、タロイモやクワズイモは人類がオセアニアの島々に居住をはじめたときに持ち込まれたことがわかっている。これは植物の分布だけではなく、タロイモやクワズイモを示す単語を比較し再建できる、つまり語という形での「発掘」により裏づけられる。ちなみに、タロイモとクワズイモは、先史オセアニアの人々がメラネシアに入ってきたときには、それぞれ、*talo(s)、*piRaq というように表記できる名前で呼ばれていた。これは、約3000年前にオーストロネシア民族の一派がオセアニアに入ってきたとき、タロイモやクワズイモがすでに人々の生活に存在し、それを呼ぶ名称があった、ということだ。タロイモもクワズイモもオーストロネシア民族が移動をはじめた台湾から東南アジアなどにかけて分布がみられ、タロイモは食用、クワズイモはその大きくて切れ目のない葉で食料品などを包むために利用されるのが一般的だ。クワズイモはもしかしたら、オセアニアに入ってきた時点でも包むための道具としての役割のほうが大きかったのかもしれない。いずれにしても、タロイモ、クワズイモともに、人々がオセアニアに入ってきたときに一緒に定住し、現在に至っていると考えられる。
これに対し、ミズズイキについては誰によっていつ、どこから環礁島に入ったのかがこれまではっきりしていなかった。栽培されている場所はミクロネシアやポリネシアの島々、つまり大陸部から離れた場所に点在するさんご礁の島々だが(地図2)、栽培されているミズズイキに近い野生種は、マレー半島地域とニューギニア島嶼部に二つに分かれて分布している。これらの野生種の分布が人によって運ばれた結果なのか、それとももともとこの二つの地域に分かれて自生していたのかがそもそもわかっていないし、ましてやどの段階で苗がミクロネシアとポリネシアの島々にわたったのか、についても植物を見ているだけではわからない。
ところが、ミズズイキを示す語を比較分析すると、ポーンペイ島で昔、話されていた語として発掘できることがわかった。つまり、人々がミクロネシアに定住をはじめた少し後、しばらくしてからおそらくポーンペイ島あたりで栽培植物としての地位と名称が確立したのだろうと考えられる。どうやらそこから、ミクロネシア内では西方向へ、また東側のポリネシア地域の環礁島へも伝播したらしい。ニューギニア北部へ南下したミズズイキも多少あった。ミズズイキの伝播はオセアニアへの人類の殖民に対して少し遅い時期であった、ということである。それでは人々がオセアニアに漕ぎ出した最初の舟にはミズズイキは乗っていなかったのだろうか。


「ミズズイキ」の祖先

 人々が新しい居住地へと移住するときには、連れて行く動物の種類が多いほど、持って行く植物の種類が多いほど、生存のチャンスは大きくなる。移住先で新しい環境に適応し生き延びる可能性を最大限にするために身のまわりにあるものすべて、とくに栽培植物の類はできるだけ多くの種類を持っていったであろうし、生存の可能性を最大限にするために積み込めるものは何でも積んだであろう。新天地で暮らすわけだから、何が起こるかを完全に予測するのは不可能である。ニューギニア島嶼部を出発して北に向かった人々が野生のミズズイキの苗を積まなかったとは考え難い。だから私はしたがって、ミクロネシアでミズズイキの栽培植物としての地位と名称が確立してまわりに広まりはじめたのが時代が少し下ってからのことであったとしても、きっと現在オセアニアに見られるミズズイキの祖先はニューギニアに生えている野生種であったのだろうと考えている。その野生種を持っていったおかげで陸から遠く離れた珊瑚島での生存が可能になり、その栽培法が定着するにつれ、いっそう多様な環境での居住が可能になったのだろう。言葉のデータの分析には、実際の植物が海を渡った時期と、人々の生活に定着した(つまり、言葉に名称が継続的に現れるまでの)時間の間に、どうしてもラグが出てしまうということなのだ。
最後に どんなに蛯ォな船でも積み込める荷物の量は限られている。私たちがスーツケースを覗き込んであれこれ考えるように、いやきっとそれよりうんと真剣に、先史オセアニアの人たちも荷物を選んだに違いない。何を積み込むべきかを議論して夫婦喧嘩になったりはしなかっただろうか。子供たちもそれぞれ小さな宝物を胸に抱えていたに違いない。いろいろな種類のタロイモの苗のかごや豚や犬の鳴き声で満たされた船のなかで、波にゆられながら人々はどんなことを語り合ったのだろう。
昔の人が何日もかけて旅したその航路を、現在の私たちはいつも数時間で飛び越えてしまう。地面を掘っても出てこない、言葉を調べてもわからない、でも確かに存在したはずの先史オセアニアの人々の「暮らし」から、そうすることでますます離れてしまうような気がするのは、私だけだろうか。



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