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関雄二アンデス考古学研究室


もう一人のラルコとの出会い
   ―ペルー北海岸の旅―

関 雄二

車内は、エンジンのうなり声だけが共鳴し、助手席の人間との会話もままならない。見渡す限りの砂漠と砂塵は、南米ペルーの海岸部でよく見られる光景である。ちょうど3年前、私は北部の発掘調査地を目指していた。遺跡は山中にあるが、山に入る前に、海岸を2日ほどかけて北上しなくてはならない。ペルー第2の都市トルヒーヨを過ぎた車は、チクリンという小村にさしかかる。今から25年前、私の恩師が、旅行中に大農場の歴史を私に問うた場所であり、他にも気にかかることがあった。ふと村に入ってみようと思った。

村は大農場時代に築かれたもので、農場主は、ペルー考古学の草分けラファエル・ラルコ・オイレの血筋にあたる。彼は、収集家であると同時に、現在でも通用するような編年を発掘などで樹立した学者であり、国際会議もここで主宰したことが知られている。

村は寂れていた。1968年のクーデターによって成立した軍事政権は、大農場制を解体し、社会主義的政策を行うが失敗し、地方の農村はすっかり荒廃してしまう。

ホルヘ・コックス氏と筆者
チクリン博物館の展示室に立つ館長ホルヘ・
コックス・デネグリ氏(左)と筆者。カルロ
スは、財産を姪であり、館長の祖母に当たる
カルメーラ・ラルコに譲渡した。

広場で談笑する警察官に「ラルコ家の邸宅はありますか。」と尋ねると、「博物館ならこの先だ。」と指で示す。驚きである。博物館があるなど想像もしなかった。さっそく屋敷を訪ねると、ちょうど鉄扉が開き、中年の男性が出てきた。聞けば、ここが博物館で、つい先月開館したばかりだというではないか。しかも彼は館長で、ラルコ家の人間であった。

邸宅内には、古びた木製の展示ケースに土器を収めた部屋から、大農場時代の写真を飾るギャラリーまであった。村には、自前の学校、病院、警察、劇場が備わっていたようだ。ロシア・バレエ団の公演、農場で働く日本人の姿も目にとまる。相撲の土俵に立つ力士も逞しい。ラルコ家は福祉家として著名であり、労働者への慰安も忘れなかったのだろう。

じつは、私の興味は、ちょっと違うところにあった。考古学者ラファエルと、明治から昭和にかけて活躍した人類学者鳥居龍蔵との関係である。鳥居は、東アジアの旧日本植民地を中心にフィールドワークを行い、壮大な日本文化系統論を発表した人物である。その鳥居が、1937年に、外務省の委嘱で、文化使節としてブラジルとペルーを訪問している。ペルーでは講演や遺跡視察など精力的に動き回ったようだ。じつは、彼の次男で、旅に同行した故龍次郎氏に、先年インタビューをした折り、訪問先として挙がった名前の一つがこのラルコ邸であった。

こんな些細なことは、知らないだろうと思いつつ、館長に鳥居のことを尋ねると、思い当たることがあるという。アーカイブ室から戻ってきた館長の手には、鳥居の接待を要請する日本領事の手紙があった。しかし宛名が違う。カルロス・ラルコ・エレーラとある。ラファエルではない。この謎も館長の説明を聞いて解決した。

旧ラファエル/ラルコ/エレーラ博物館
チクリン村の広場に建つ旧ラファエル・ラル
コ・エレーラ博物館(1926~1956)。

ラルコ家の農場は、この村が位置するチカマ谷にサトウキビの大農場を持っていた。その権利の半分は、カルロス・ラルコ・エレーラが持ち、残りは弟のラファエル・ラルコ・エレーラが保有していた。兄カルロスは、1918年から亡くなる1956年まで、レ・リベルタ県の名誉日本領事として活躍し、弟ラファエルは、文化財を収集することで、国外流出を防ごうとした人物であった。後にラファエルの意思は、息子ラファエル・ラルコ・オイレに受け継がれ、考古学者として大成したばかりか、チクリンに父の名を冠した博物館を建てる。現在、首都リマにある同名の博物館は、ここから移築したものである。

つまり、鳥居一行を歓待する役を担ったのは、名誉領事である長兄カルロスであり、考古学コレクションを鳥居に見せたのは、チクリンの博物館長であった甥ラファエルの可能性が高いことになる。長兄カルロスが名誉領事であったことは聞いていたが、今まで鳥居とは結びついていなかった。考古学者同士の交流に気をとられすぎていたのだろう。

後に館長から郵送されてきた資料には、カルロスの名誉領事としての功績が書きつづられていた。鳥居が訪問したその年、ラルコ家の考古学コレクションの一部は、カルロスの計らいで、名古屋市で開催された産業博覧会に出展され、その後東京帝国大学に寄贈されている。もちろんペルー文化の普及が目的であった。今秋、東京大学文学部考古学教室を訪問した私は、寄贈品の存在を確認し、カタログに記された彼の名を見つけることができた。

鳥居の帰国後、太平洋戦争が勃発し、連合国側のペルーは、移民である日系人を収容所に送り込む。当時、カルロスは、中立国であったスイス領事も兼ねていたため、この地位をうまく利用して日系人を終始守り抜いたという。1955年には、日本政府より勳三等を受賞し、また来日して鳥居とも再会を果たしている。

アンデス考古学の巨星ラファエル・ラルコ・オイレの陰に隠れた叔父カルロス・ラルコ・エレーラの功績を讃え、日本で知らしめることを館長に約束してチクリンを去った。それまで風と埃で悩まされてきた砂漠も、なぜかオアシスのように心地よく感じられた。

(2005 『まほら』43:42-43、東京:旅の文化研究所)