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バングラデシュのbanya

包括的理解への試み

バングラデシュのbanya

 バングラデシュではベンガル語では“banya"と表現される洪水(flood)が頻発する。しかし、banyaという語を理解しようとすると、実は一筋縄でいかない問題に行き当たる。本論文では、banyaの語に焦点を当て、バングラデシュの人々の洪水観さらには災害観の一端に接近しようと試みる。
 バングラデシュには洪水が発生する条件が整っており、その気候と地理的条件の結果、毎年の洪水は広範囲で避けられないものとなる。一方、それが同時に肥沃な土壌をもたらし、「黄金のベンガル」と呼ばれる豊穣さを生み出してもきた。同国では雨季後半を中心に、例年、河川から水が溢れ、田畑を広く水没させる。これが季節現象としての洪水である。他方、雨季の初期から中期であっても集中豪雨的な降雨が生じたり、国内での降雨と国外からの水の流入が時期的に重なったりすると、例年の周期的現象の範囲を超えた規模の洪水になる。被害が大きくなれば、それはまさしく「災害」としての洪水に他ならない。とくに1987年と1988年の大洪水は、それが2年連続であったことと、いずれも「過去に例を見ない」「最悪」と表現されるほど大規模であり、人々の記憶に強く刻み込まれている。ただし、辞書的定義からすれば、バングラデシュにおいて洪水とは、水が「自然の、もしくは人工の岸を超える」ことである。難しいのは、水が岸を超え始めてから家の屋根まで水没する事態に至るまで、「洪水」の形態は連続的かつ無限に多様であって、せいぜい水没「面積」や「水深」で違いを表現することは可能であっても、途中のどこかに「普通」と「異常=災害」とを区分する何らかの決定的な線が引けないことであろう。
  • 乾季と雨季の景色

banyaへの介入

 2年連続の大洪水を受けて策定された洪水対策Flood Action Plan(FAP)は、事実上の国土改造計画に相当する大規模なものであった。しかし、その後の洪水対策の経過では、洪水に対する姿勢の転換を見ることができる。「水資源」(water resources)への介入に関して洪水計画調整組織(FPCO)は、1995年の計画書においてFAPのような大規模な介入を否定している。さらに1999年に策定されたNational Water Policy(NWP)ではFAPへの言及は一切なくなり、代わりに本文の冒頭で水をバングラデシュの生活の最重要資源と述べて、NWPこそ「全く新しいパラダイム」であるとし、水資源の有効活用が主要目的の筆頭に揚げるまでに至った。ここでは、FAPの時期に焦点になっていた「災害」としての洪水(=水のマイナス面)に焦点を当てる見方ではなく、「水資源」(=水のプラス面)に焦点を当てる考え方へと、「水」に向ける眼差しに大きな変化が生じている。ダッカ水道局の公式会議では、洪水「災害」の「防止」ではなく「軽減・緩和」が強調され、様々な災害発生の根底にあるものを広く「リスク」と捉えて「リスク緩和」を主張する方向が強調された。
 FAPには当初から厳しい批判があった。その批判の焦点は(1)技術面、(2)コスト問題、(3)持続可能性の3側面に要約できる。さらに、FAP批判の流れの中では、“Living with floods” という視点が打ち出された。バングラデシュの人々は長い歴史の中で毎年周期的に来る洪水と共に生きてきたため、「洪水と共に生きる」ことこそが伝統的な生活のスタイルだ、との主張である。当初はバングラデシュ社会の洪水経験と対応をまとめる際に用いられた言葉であった“Living with floods”は、FAP推進派へのアンチ・テーゼとして市民権を得るに至った。そこでは、FAPのようなハード面での対応の限界を意識し、「別の」方向を模索するのが基本姿勢とされた。また、FAP批判の根底には「開発」手法に対する批判があり、批判派の思考は従来の自然破壊的な開発や急激な近代的発展に対する批判として新たに登場しつつある欧米発の「環境を意識した開発」「持続可能な発展」の思考と共通しているといえる。一方で確かにFAP推進派と批判派は、洪水を「災害」として「阻止」し「排除」するか、生活サイクルの中で「受容」するかといった立場で対立している。他方で、バングラデシュの洪水に対処し、人々の生活に「介入」しようとする点では両者の思考は共通していると言えよう。

「災害」の定義

 barshaが周期的現象として「普通の」範囲の洪水で、それを超えた「災害」としての洪水がbanyaと呼ばれる、と主張する研究者もいるが、実際にはそのような区別は見られず、banyaが一般的に用いられている。この背景には洪水災害定義の曖昧さがある。実際問題としてどこまでを「普通」の洪水と言い、どこからを「災害」としての洪水と言うか、線引きができないのである。さらに難しいのは「災害」そのものの定義ないし説明の問題である。多くの人々にとって、「災害」を一語で語る内容、カテゴリー化された理解の領域が明確にあるのかどうか自体が疑わしいのである。被災地で「災害」はどのように受け止められているのだろうか。2005年、河岸侵食の被災地で行った聞き取り調査では、河流により河岸侵食が生じていることを理解した上で、物理的対抗手段が有効だとする意見と同時に、その原因を「Allahr iccha(アッラーの意思だ)」、「これはAllahrshasti(アッラーの罰)だ」とする考えが共有されていることがわかった。科学的合理性が宗教的言説と結びついた形で出ているのである。洪水の主要原因は何か、との質問に対する答えは、“Allahr gajab”がトップで31%を占め、2位の「過剰な降雨」(14.3%)を大きく引き離している。これは中・下層グループにおいてより顕著に見られる傾向である。
 下層の人々ばかりでなく、広く中層の人々までもがなぜ、科学的思考をしつつ、同時にイスラーム的言説により宗教的確信を表明するのか。筆者は以前、バングラデシュのムスリム社会に関する論考をまとめた中で、現在のバングラデシュ・ムスリム社会の中にアイデンティティ認識に関して亀裂があること、その亀裂は「都市中流層」以上とそれ以外の人々との間にあること、欧米的なライフ・スタイルを追求する都市中流層以上の人々と、日常生活の核にイスラームを据えて非常に強いムスリム意識を持つ、それ以外の人々の多くは「実践するムスリム」であること、等を指摘した。この視点から仮説的に敷衍するなら、人々の意識の中でイスラームの占める重み、イスラーム実践の差異に対応する形で、「洪水」、広くは「災害」の捉え方が異なる可能性があるのではなかろうか。
 さらに、洪水災害認知に関連して、特に村部の人々が周期的現象としての洪水banyaを切実に必要としている事情を考える必要がある。バングラデシュの場合、周期的現象としての洪水が引いてゆく時期(減水期)を利用するアモン(aman)作季の稲作は収量が安定しており、人々も食味の面でアモンを最も好んでいる。アモン作は、平年並みの洪水が来ること、その水が平年並みに引いてゆくことを条件に、安定的な成長と作柄とを保障する。それゆえ、農民たちは洪水をAllahr dowa(アッラーの恵み)とも言う。確かに、平年並みの水位を超えた水が来れば人や家屋への被害だけでなくアモン作の植え付けにも時期的に影響を及ぼすが、この場合は後に対策をとることが可能である。(大洪水も含めて)水が来る場合よりも、「水が来なかった場合」の方が村部住民にとってはより深刻な「災害」なのである。また、バングラデシュの国土の大部分は極端に平坦であり、平年の水量をわずかに上下するだけで低地もしくは高地に重大な影響を及ぼす。これらの感覚は都市部ではほとんど理解されない。ダッカを初めとする「都市」の住民にとっては、洪水が発生すること自体が「災害」なのである。それゆえ、彼ら都市住民たちは基本的に徹底した洪水「排除」を主張する傾向が顕著である。都市部でも、上層の人々は普段は洪水になじみのない生活を送っているが、低地や排水の悪い土地に住んでいる下層に近い人々にとって洪水は来ないにこしたことはなく、洪水の水を必要とする人々の感覚は遠いものとなっている。こうした生業差、地域差、階層差を考えると、banya認知は、一様であるよりも、かなり多様になされていると考えた方が実情に近いのではないか。
図1:都市と村部におけるbanyaと「災害」認識
図2:研究者等が想定する"flood"と"hazard"定義

包括的理解を目指して

 百科事典BANGLAPEDIAの英語版に掲載されている“flood”の項目を見ると、ベンガル語版の“banya”の項目にはない記述が見られる。追加されている記述は、バングラデシュにおける“flood”が、“recurring phenomenon”(繰り返し生じる現象、いわば周期現象)であること、“often……within tolerable limits”(しばしば[=大体は]、耐えられる[=容認できる]限度内)であることである。これらはバングラデシュでは「言うまでもない」「常識」である。しかし、英語でバングラデシュの“flood”を理解しようとする人々にとっては、説明しないと理解できない、それどころかfloodからは通常想定されない側面なのではないか。また、banyaという言葉は、女性の名前に採用されることがある。この不思議な命名について理由を質したところ、多くの人は怪訝な表情で、そんなことを聞いてどうする、と質問を返した。そのように命名する人がいること、結果としてそのような名前を持つ人たちがいることは日常的事実と受け入れているのだが、実のところ、大部分の人はそうした名前の意味、さらには命名の意図等については考えたことがないのであろう。これは、これまでのbanyaについての議論や洪水についての議論では注意を払われなかった意識・感覚が目に見えない形で、バングラデシュの人々の間に存在することを示唆するのではないか。いずれにせよ、女性の名前にbanyaと命名する際、そこに込める命名者たちの思い、さらには人々のbanyaに対する感覚は、我々がfloodや「洪水」から受けるものとは異なる部分があるように思える。

 以上で、banyaには我々が通常考える洪水とは異なる側面があり、その指示する範囲はかなり広く、意味内容も非常に幅広いことを具体的に提示した。筆者も、大規模堤防建設は論外としても、やはり“living with flood”的な視点に立った防災対策はある程度必要と考える。ただし、その場合でも、hazardとしてのfloodを前提にした“living with flood”でなく、あえて言うなら、banyaのプラスもマイナスもどちらでもない部分も全て含んだbanya本来の意味での“living with banya”であって欲しいと願うのである。
図3:banya概念図(1)
図4:banya概念図(2)