奇蹟とナショナリズム
インド洋大津波災害と南インド社会
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2004年12月26日(日)朝、インドネシア・スマトラ島北部で起こったマグニチュード8.9の大地震は、インド洋を横断する大津波を誘発し、インドネシア、タイ、スリランカ、インドをはじめ、遠く東アフリカ沿岸部にまで及ぶ未曾有の大災害となり、死者はのべ約30万人にのぼった。今回の地震・津波は、タイ、スリランカなどのリゾート地をおそい欧米の観光客も多くまきこまれたために、世界的な大関心事となった。
この災害報道で目立っていたのは、現地からの遺体写真の氾濫であった。そこには「物語としての欧米人犠牲者、背景としての現地人犠牲者」という厳然たる区別があり、また2001年の同時多発テロのさいに犠牲者から視線をそらせた報道機関の態度とは大きな差異があった。今回の大災害は、さまざまな意味で世界的な関心事となっただけでなく、報道のあり方そのものに現在の世界の不均衡な構造が色濃く反映されていた。
地震・津波から1年を経て2005年末には被災地の現状についての報道も行われてきた。そこで特徴的なのは、震源地のインドネシア、そしてスリランカ、タイなどの状況は伝えられるものの、インドについてはほとんどその現状が取りあげられていなかったことである。インド全体で死者は発表されている数字が1万2千あまり、じっさいはその2倍にものぼろうというのに、インドの復興についての世界の関心は急速に後退していたようにみえる。
インドが忘れ去られてしまったのには、いくつかの要因があると思われる。たとえば、インドはむしろ隣国のスリランカを援助するがわにまわろうとしていたことから、その大国意識ゆえに被害の実情が表に出なかったことをあげるむきもある。しかし、さきの世界の不均衡な構造という観点からは、ひとつにはインドではメディア先進国である欧米の観光客の被害がほとんどなかったこと、そしてなによりインド政府が12月29日に、外国からの政府レベルの援助を断ったという事情が働いていたようである。
筆者は、災害時たまたまインドに調査のため渡航していたので、2005年1月6日にマドラス北部、南部の被災地を訪れたのを皮切りに、いくつかの研究費によって継続的に現地調査を行ってきた。
・2005年2月22-25日ナーガパッティナム周辺地域
「2004年12月スマトラ沖地震津波災害の全体像の解明」 (研究代表者京都大学防災研究所・河田恵昭)平成16年度科学研究費(特別研究促進費)
・2007年8月21-24日ナーガパッティナム周辺地域
「南アジア地域における消費社会化と都市空間の変容に関する文化人類学的研究」 (三尾稔・研究代表者)平成18~20年度科学研究費(基盤研究A)
◎2009年2月26-3月2日カンニャクマーリ、ナーガパッティナム周辺地域
「大規模災害被災地における環境変化と脆弱性克服に関する研究」 (林勲男・研究代表者)平成20~24年度科学研究費補助金 (基盤研究A)
・2009年8月20-25日ナーガパッティナム、カダルール周辺地域
計画研究「地域大国の文化的求心力と遠心力」 (望月哲男・研究代表者)平成20~24年度科学研究費補助金 (新学術領域研究(研究領域提案型))
また、筆者による主な研究成果は以下の通りである。
・2005 「Socio-cultural Impacts and Responses in Southeast India」(深尾淳一・杉本星子と共著)『2004年スマトラ沖地震津波災害の全体像の解明』(河田惠昭・研究代表者)平成16年度科学研究費補助金(特別研究促進費)研究成果報告書、pp.147-166
・2005 「タミル沿岸部社会と災害」地域研究コンソーシアム・シンポジウム「緊急支援から地域再興へ-インド洋地震・津波災害と地域社会」上智大学(4.9)
・2005 「インド」研究フォーラム「インド洋地震津波災害被災地の現状と復興への課題」国立民族学博物館(4.23)
・2006 「奇蹟とナショナリズム-南インドにおけるインド洋津波災害の事例から」「宗教と社会」学会、同志社大学(6.4)
・2007 林勲男編『国立民族学博物館研究フォーラム 2004年インド洋地震津波災害被災地の現状と復興への課題』(SES73)
・2009 ‘Consuming Miracles: Pilgrimage to Velankanni,’(科学研究費「インドにおける消費パターンの変動と経済成長、1950-80年:中下層階層を中心に」(柳澤悠・研究代表者)研究会、東京外国語大学本郷サテライト)(10.11)
・(In Press) ‘Socio-religious Power Relations and Post-tsunami Spread of Miracle Stories,’ in Karan,P.P.&S.Subbiah(eds.), U.of Kentucky Pr.
ここでは中間報告として、災害後の復興過程において宗教が果した役割について、とくにネット上などで広く流布した奇蹟譚を手掛かりに、さまざまな対立要因を持ち込む原因となっている点について考えてみたい。
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 4年後の仮設住宅
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インド政府の公式の発表によれば、インド全体での死者は12405人、各州の内訳は次の通りで、圧倒的にタミルナードゥ州およびアンダマン・ニコバル諸島に多いことがわかる。
タミルナードゥ州 (州人口6240.5万人) | 8009 |
アーンドラ・プラデーシュ州 (同7620万) | 107 |
ケーララ州 (同3184万) | 177 |
アンダマン・ニコバル諸島 (直轄領、35.6万) | 3513 |
ポンディチェリー (直轄領、97万) | 599 |
また、インドでもっとも被害の大きかったタミルナードゥ州の県別死者数は次の通りである。
ナーガパッティナム (Nagapattinam)県 | 6065 |
カンニャクマーリ (Kanyakumari)県 | 828 |
カダルール (Cuddalore)県 | 617 |
チェンナイ (Chennai)市 | 206 |
カーンチープラム (Kanchipuram)県 | 129 |
皮肉なことにインドで被害が大きかったのは古来より東西海上交易が盛んに行われていた地域であった。インド南東部海岸はコロマンデル海岸と呼ばれ、南西部のマラバール海岸と好一対である。マラバール海岸は主に西側のアラブ世界、ヨーロッパ世界、アフリカ世界などと直接つながっていたが、コロマンデル海岸は、東南アジアから中国、日本までと結ばれていた。16世紀からはポルトガル、オランダ、デンマーク、フランス、イギリスなどヨーロッパ諸勢力の葛藤の場となった。1945年にポンディチェリPondicheriの南にあるアリカメードゥArikkameduの遺跡からローマ時代のアレッツォ焼きの断片が出土して、東西交易におけるコロマンデル海岸の重要性が確認された。タミルナードゥの東西交易における地理上の重要性は、インド洋大津波災害によって皮肉にも海を隔てた東南アジアや東アフリカとの関係を見ることであぶり出される結果になった。
マドラスは南部のマイラプール地区が古くからの宗教センターであり交易拠点であった。たとえば、ギリシアのプトレマイオスの地理書には豊かで広大で豪奢な「マイラルフォンMylarphon」の港の栄華についてふれられている。11世紀のアラブの船乗りは「マイラMaila 」、「メイランMeilan」とよび、1375年のカタランの地図(パリ国立図書館)には「ミラポールMirapor」と記され、14世紀イタリアのマリニョーリは「ミラポリスMirapolis」とよんだ。
マイラプールには聖トマスの遺骨を祀る聖トマス大聖堂があってキリスト教にとって重要な地であるだけでなく、古くから「寺院都市」として栄え、いまでもジャイナ教、仏教、ヒンドゥー教、さらにはイスラーム教、キリスト教などの寺院、モスク、教会などが集中している。なかではキリスト教の聖地サントメ大聖堂とシヴァ派のカパリースワラKapaleeshwara(Kapalisvara)寺院が巡礼地、観光地として双璧をなしている。また、タミル古典文学のティル・ワッルワルがこの地で一生を送ったとか、宗教詩人サンバンダルやアッパルらがカパリースワラについてうたった詩があるなど、タミル文化の故地としての役割を負わされている。今回被害が大きかったのは市域の北端のスラム地域カーシメードゥとマイラプール周辺であった。
ナーガパッティナム県は州の中央海岸部にあり古代からの東西交易の拠点がある。ナーガパッティナムNagapattinamは、ナーガパッティナム県の県庁都市で、2001年国勢調査時の人口92,525、漁業を中心に栄えている町である。この地域は、ベンガル湾に面したいわゆるコロマンデル海岸の中央部にあたり、古代からインド洋交易路の上にあった。古代ローマ帝国時代にはすでにインドとヨーロッパとのあいだの東西交易が盛んに行われており、プトレマイオスはこの町がニカムNikamとよばれ、古代タミルナードゥ有数の港町であると記している。
ナーガパッティナムから有名なムスリム聖者廟をもつナゴールを経て北に行けば、カーライッカール、ターランガバーディ(トランケバール)、アリカメードゥなどの古くからの港市が続いている。南に10キロほど行くとキリスト教第一級の聖地ウェーラーンガンニ聖堂がある。この地域にはヒンドゥー寺院だけでなく、仏教寺院、ムスリム聖者廟、キリスト教聖堂など、さまざまな宗教施設、聖地が共存している。この地は現在も宗教のるつぼであるが、キリスト教のウェーラーンガンニ、イスラームのナゴールは多くの巡礼客を引き寄せている。また、さらに北のカダルールは英領時代は貿易港として栄えたが、いまは漁港となっている。ほかにもインド最南端のカンニャクマーリも被害を受けている。
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 津波メモリアル
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今回の地震津波のような大きな災害にさいして、宗教は「霊的」な救済や奇蹟をもたらすとともに、「物的」な救援や援助の拠点になる。このかぎりでは、宗教はきわめて大きな意義をもっている。今回の災害についても、初期段階では宗教や階層などの別を問わず、住民が自発的に被災者を助けたという美談に満ち満ちており、そこにいわゆる「災害ユートピア」とよばれる現象が出現していたことがうかがわれる。そのさい、ヒンドゥー寺院、モスク、教会などいずれも宗教を問わず被災者のシェルターの機能を果たし、また援助金、援助物資の集積所、分配所にもなっていた。
タミルナードゥ州の津波の被害が大きかったチェンナイ市とナーガパッティナム地域には、サントメ大聖堂とウェーラーンガンニ聖堂という、インドでも第一級のキリスト教の聖地がある。津波が襲ったのが12月26日早朝というクリスマスの翌日にあたったために、とくにウェーラーンガンニでは、クリスマス礼拝に訪れていた巡礼客に大きな犠牲者が出た。また、サントメの周囲にはクリスチャンの漁民などが多く住んでいたが、これらの人びとにも大きな犠牲が出た。
災害の直後は、どちらの聖堂も内部は被災民の避難所となっていたし、ウェーラーンガンニから北へ15キロほどはなれたナゴールにある有名なイスラーム聖廟(ダルガーdargah)もまた、宗教を問わず被災者のシェルターとして提供されていた。ダルガーの周辺地域はふだんは比較的ヒンドゥー、ムスリムの対立がある地域だということであったが、災害のさいにその対立が表面に出ることはなかった。
そして、もちろん宗教施設のもつ救援援助機能もまたフル稼働であった。その実態は明らかでないが、西欧諸国からの援助額競争を尻目に、物資も資金もインドには潤沢にあり、そのせいか街道にはつかわれない古着が山積みになっていたという話もある。これにはインド政府が援助を断ったという事情があったとはいえ、各国政府にかわって援助の主体となっていたNGO、NPOが、寄付などをうけている手前、相手の状況を斟酌する暇もなく、物資をおくらなければならない事情も働いていた。
インドの『インディア・フォーカスIndia Focus』誌編集長スバーシュ・アグラワルSubhash Agrawalは、西欧諸国による援助競争は、アメリカ合衆国の軍事的覇権によって牙を抜かれてしまった西欧諸国が、援助をつぎの競争の具にした結果であるが、これに逆らったインドが袋だたきにあったのだ、というじつに皮肉な分析を行なっていた[2005年1月28日付毎日新聞]。インドが政府ベースの援助を断ったために西欧諸国から袋だたきにあった、という主張はあながちうがった見方ともいえない。その一方で、これもお定まりで、政治的社会的要因によって救援の手が現地に届いていなかったのもいつもの通りであった。
一方のインド側でも、ケーララ州を本拠にするMata Amritanandamayiの教団が1月3日に10億ルピー(当時のレートで約25億円) の寄付を行ったり、リシュケーシのSwami Dayananda Eductional Trustなどのヒンドゥー系諸団体、それにキリスト教、イスラーム教の関連団体などが宗教を前面に出して莫大な援助を行っていた。とくにキリスト教関連団体は、福祉援助のノウハウを心得ており、その機動力、組織力、集財力において他を圧倒していた。
しかしそのことが、キリスト教は援助をエサに人びとを改宗させようとしている、という誹謗中傷を引き起こす原因にもなった。とくに、他宗教を排斥しようとするヒンドゥー・ナショナリストからは、一見して神父、修道女とわかる姿をしていると暴行をうけたりするようなこともあり、いわばその素姓を隠して援助活動を実施せざるを得ない状況も生まれたという。
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 自助グループの会合
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こうした状況のなかで、インドネシア、スリランカ、インドなどにおいて災害をめぐるさまざまな奇蹟譚がうまれた。その多くは、災害ののちの「奇跡」の生還、救出などの話であるが、しかし宗教的な「奇蹟」譚も多く見られる。たとえばドイツ語ページであるが「津波から救ったイエスの強力な手Die Maechtige Hand Jesu hat sie vor dem Tsunami Gerettet」は、キリスト教にまつわるこの手の話を紹介していてまことに興味深い。とくに、インドネシアでうまれた次のような、「敵意によって救われた Saved by Humility」奇蹟譚は、宗教が救済ともなり、また対立を引き起こす要因ともなる諸刃の剣であることをよく示している。ここで2つ3つ奇蹟譚の例を紹介してみよう。
「西アチェーのムラボーMeulabohの町で、少数派のローマン・カトリック400人ほどが、クリスマスを祝いたいと県長Camatや警察、軍に申し出たら、この町はイスラーム法シャリーアのもとにあるから、ムスリムのいないところで祝うようにとアドバイスされた。ちなみにこの町は人口の8割を多数派のムスリムが占めている。キリスト教徒はやむなく町から5キロはなれた丘の上に集まって祝い、その晩はその地にとどまった、翌26日の朝地震と津波が襲ってムスリムは壊滅し、キリスト教徒は無傷だった。ムスリムは、キリスト教徒にクリスマスを祝うのを禁じたために神の罰が当たったのだと噂し、キリスト教徒は神の慈悲だと考えている」。
「スリランカ東岸のムッライッティーヴー周辺の4つの教会の司祭ジェイムズ・パッティナーダンJames Pattinathan神父は、いつもであればちょうど津波がきた時間に教会でミサを立てているところであったが、26日朝はいつもとちがって町の郊外の小高いところにあるセント・ヨセフスSt. Joseph's教会でミサを行なった。ミサには1500人ほどの信者が集まっていたが、神父の話が15分のびて皆は話が長いとぶつぶつ言っていた。しかし、もし話が時間どおり終わっていたら、町にもどった人びとがちょうど津波にあうタイミングだったのを結果的に救った」。
「スリランカ南部マータラMataraの聖母マリア教会では、26日の朝9時10分からミサが行なわれていた。一人の女性が突然騒ぎだし、気分が悪くなった。教区司祭のチャールズ・ヘーワーワサマCharles Hewawasamはまわりに注意していたが、教会の前に車が流れてくるのをみて外に飛び出した。洪水だと悟った神父は、信者をとなりの3階建ての建物にうつした。その後第2波がやってきて、2階まで水につかって大きな被害を受けたが、人びとは無事だった。29日の朝、2人の信者がやってきて、教会から400メートルはなれたところで、行方不明になっていた聖母子像が見つかったという。それも、幼子イエスの冠そのまま残った状態で。このマリア像は400年の歴史をもち、過去にも奇跡を起こしている」。
こうした噺は際限がないし、奇蹟好きのキリスト教側に多い。逆にイスラームの側からは海岸部のモスクが流されずに残ったという写真なども流されている。皮肉な見方をすれば、一般に宗教施設はやや小高い場所に建てられていて、ふつうの民家よりは堅牢につくられている。また全体にオープンな構造になっているために水が逃げやすく、相対的に津波の被害を受けにくいという物理的な理由があるように思われる。それとともに、家は残っていても有意味的でないが、宗教施設は残ったことで意味を付与しやすいという、大げさにいえば認識論的な理由も考えられるであろう。ヒンドゥー寺院についても、海岸の小祠の神像だけが残っている例などをそこここで見かけた。阪神淡路大震災のときの奇蹟のキリスト像のように、新しい神話が生まれることも珍しくないのである。意味の体系である宗教のシステムとしての強固さを、ここに見ることができる。
それだけでなく、聖トマス大聖堂にしても、ウェーラーンガンニ大聖堂にしても、そのようにして流布するようになった神話は、またすぐれて政治的な意味をもつことも指摘しておかなければならない。インドにおいてそれは当然、ヒンドゥー・ナショナリストとキリスト教徒の関係にあらわれており、インドネシアでは多数派のムスリムと少数派のキリスト教徒との関係が反映されている。とくにインドネシアでもっとも被害のひどかったアチェー州は、もともと両者の対立がもっともきびしい地域であるし、またインドとくにタミルナードゥ州では、津波が襲った地域の漁民にキリスト教徒の割合が比較的高いという事情もある。
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 聖トマスの奇蹟のポール1
 聖トマスの奇蹟のポール2
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われわれにとって問題なのは、このような奇蹟譚が、その真贋や「科学的」根拠の問題をさておいて、宗教間対立の具としてつかわれていることである。とくに、このような場面でのキリスト教の教会やNGO、福祉慈善団体などの活動は、人びとに改宗をせまる行為をともなっているととられて敵意をあおる結果になる場合が多い。その反面、キリスト教徒の側には、世界的に張りめぐらされた圧倒的に強力な情報ネットワークがある。インドでの政府の対応は、比較的早いほうであったが、キリスト教関係者の動きはより早く、また組織的であった。また、さきの神話などもさまざまなメディアを通して流布しており、インターネット時代になってそれはますます加速している。もともと宗教というのは有力な情報メディアである。それが現代になって従来にもまして重要な意義をもつようになっている。
たとえば、ウェーラーンガンニの場合には、キリスト教徒は大聖堂のご利益で奇蹟が起こったとこれを賞賛しているが、一方、反キリスト教勢力とくにヒンドゥー・ナショナリストは、周辺の被害をあげつらって、聖母マリアも津波は防げなかったではないか、と非難している。それだけでなく、津波被害からの復興に際しては、キリスト教関係のNGOなどがいちはやく動き出し、それがかえって、支援と見せかけてキリスト教への改宗を迫っている、との根拠のない噂も流れて、いやがうえにも危機感があおられるようなこともあった。それがときには神父や修道女などへの暴力沙汰におよんだ例さえある。そのため、修道女はふだん無地のサリーなどを着るのに対して、救援活動のさいには一般の女性が着るようなカラフルなサリーを着けて身分を隠しすようにしていたという。こうしたキリスト教徒の折伏?への脅威は、とくにヒンドゥー教徒のあいだに根強く、ヒンドゥー・ナショナリストが危機感をあおったことも加わって、かえって暴力ざたにまで発展することがあった。
インドでの津波災害はこのような宗教間対立だけでなく、さまざまな対立や格差を社会にもたらしている。もっとも大きな格差は、援助の過程における漁民と非漁民とのあいだにある。津波は海からの災害であるから、当然ながら海で仕事をする漁民に被害が集中するし、また援助の手もほぼ漁民対象に限定される。しかしながら、ウェーラーンガンニのような聖地では観光産業が打撃を受けることにより、漁民以外の人びとも直接間接に大きな影響を被っている。漁民対象の援助の厚さに対して、ほとんどその恩恵に浴さない非漁民の不満は募る一方である。また、大規模な復興住宅の建設により、従来からあった村落などでの紐帯が断たれ、あらたな対立の芽が生まれているところもある。
今回の災害復興に際して、それがとくに世界的な注目を浴びたためもあって、実にさまざまな機関を通じて必要額の数倍の援助金などが集まったと推定される。そのため同じ地域に援助競争を繰り広げられたあげく、失敗した機関が援助金のやり場に困っていたというような噂もまことしやかに伝えられている。そのためか、あまり被害のなかった村のために200戸以上の復興住宅がつくられたものの、入居者がほとんどいないというような事態も招いている。
このだぶついた援助によってさまざまな対立要因が表面化し、新たな差別も生まれている。人類学の重要な使命は、こうした表に出にくい事態について積み重ねてきた現地調査のノウハウと人のネットワークを駆使して、問題点をえぐりだすところにある。それは多くの人びとが焼け太りでハッピーであることに水をさす恨みはあるが、あえて新たな事態で不利益をこうむる人びとにサイドに立っての研究が必要だと考えている。
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 いまだに建設中の復興住宅
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