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トルコ・マルマラ地震被災者の住宅再建運動

災害の概要

 1999年8月17日にトルコ東北部でコジャエリ地震が、さらに同年11月12日には近接する地域でボル・デュズジェ地震が発生した。マルマラ地震とは、二つの地震はあわせた総称。コジャエリ地震では17,480人、負傷者43,953人、全壊66,448、半壊66,756戸、一部損傷79,576戸、ボル・デュズジェ地震では、死者763人、負傷者4,948人、全壊26,704戸、半壊37,825戸、一部損傷40,944戸の被害が出たとされるが、実数はこれらを上回っているというのが一般的な見解である。

被災地の概要

イズミット市
 イスタンブール県の東側に隣接するコジャエリ県の県庁所在地。イスタンブールを中心とするマルマラ工業地帯の中核都市のひとつである。全国各地から人口が流入する労働者の街で、人口の流動性が高い。イスタンブールとは高速バスや鉄道で結ばれ、イスタンブールへの通勤圏でもある。コジャエリ地震では、市中心部に被害が集中した。とりわけベキルパシャ区は、死者400人、全壊家屋が3~4%で、市内で最も大きな被害を受けた。市周辺部のスクウォッター地域は地盤がよく、また中心部と違って家屋のほとんどが平屋か2階建て住宅であるため、被害は軽かった。
  • 傾いたアパート

デュズジェ市
 コジャエリ県の東方に位置するデュズジェ県の県庁所在地。デュズジェ県はボル県の一部(デュズジェ郡)であったが、地震後に県に昇格した。住民の多くは近郊農村の出身者であり、人口規模は小さく、田舎町の風情を残す。家屋は平屋もあるが、多くは集合住宅。住民の多くが出身村に畑・親族をもち、紐帯を維持している。市内の居住パターンにも、ロマやアバザ人、チェルケス人などのエスニックな棲み分けが見られる。コジャエリ地震では大きな被害はなかったが、デュズジェ地震で市全体が被害にあった。地震後、家を失ったり、半壊の集合住宅に住み続けることを嫌がって、出身村に避難する者も多かった。
  • 放火された仮設住宅

調査テーマ

 研究会に参加した時点での私の関心は、災害という危機に直面したとき、トルコの国家と社会、国家と家族の関係の本質的な部分がよりよく観察できるのではないか、またそのような関係は被災の経験を契機としてどのような方向に変化しうるのか、といった、かなり大雑把なものだった。
 当時、理想の家族像や子供像を写す鏡として児童福祉に興味をもち調べていたため、当初、被災地で注目したのも、地震で身寄りをなくした子供の保護の問題だった。だが、実際に児童養護施設を訪問して事情を調べると、昔も今も身寄りのない子は親族が引き取り、施設に入所するのは経済的な理由が多く、驚いたことに地震による孤児は被災地の施設も管轄官庁も把握していなかった。
 一方、被災地社会の様子を知ろうとNGOの関係者から話を聞くうちに、住宅再建をめざすNGOの活動に興味をひかれた。被災地のNGOの多くが被災地の外からやってきた知識層を幹部とし、主に国外のNGOから資金を供与されてプロジェクト・ベースで活動するのにたいして、彼らは被災者自身が幹部となり、資金の提供も断り、ひたすら社会権の実現を国に求めて、陳情やデモ行進を行っていたからである。前者が資金を集めて家を建て提供する活動であるとすれば、後者は家を必要とする当事者が家の提供は国の責務であると主張し、国に家を建てさせる活動といえた。彼らの活動は画期的なものに違いなく、これを紹介することに、大きな意義があると考えられた。
 ところで、彼らの活動が新しいものであるなら、それはどうして可能になったのだろうか。この問題を考えるうえで、鍵となると思われたのが、活動の担い手としての女性の重要性である。トルコでは、女性のセクシュアリティの保護が家族(とりわけ男性)の名誉に結びついており、高い教育を受けた中産階級以上の人々を除いて、女性のセクシュアリティは家族が守るべきであり、そのために彼女の行動を制限するのはやむをえないという考え方が支持されている。多くは就労経験をもたず、教育水準も高くなく、NGO活動もはじめての女性が、家の外に出かけて男性とともに活動する、というのは、画期的な出来事であるにちがいない。では、それはどのような条件のものとで可能となり、NGO活動にいかなる刻印を与えたのだろうか。用地の確保が確定的になり、夢のようだった住宅再建が現実に近づくにつれ、男性の参加が増えたが、これは女性の参加にどのように影響するのだろうか?住宅再建運動の展開に注目する過程で、こうした問題意識が徐々に形づくられていった。
  • 仮設住宅の住民集会

調査方法

 最初に被災地を調査に訪れたのは2003年である。震災時に日本人医師団の通訳をつとめたトルコ人の友人の紹介で、地震後、被災地で立ち上げられたNGOの連合組織の元代表者にコンタクトをとった。この組織はすでに解散していたが、傘下のNGOの一部は被災地で活動を続けていた。連合組織の元代表者の紹介で、イズミット市およびデュズジェ市で活動する四つのNGOの幹部やスタッフにインタビューを行った。さらに彼らの紹介で別のNGOの関係者や、(NGO活動にかかわっていない住民を含めて)復興・仮設住宅住民とのインタビューを行った。インタビューで知り合ったNGO関係者や住民にたびたび自宅に食事に招待され、宿泊し、内輪の話を聞く機会に恵まれた。また、仮設住宅の生活がいかに過酷なものか、寝泊りさせてもらってはじめてわずかでも実感できたように思う。この段階のインタビューでは、年齢・職業など基本的な社会的属性を尋ねる以外は、被災の体験とその後の生活、NGOとのかかわりについてなるべく自由に話してもらうようつとめた。インタビュー内容は録音せず、その場でメモをとった。なおこの調査では、首都アンカラで関係省庁・機関(災害復興省および赤新月)、および被災直後に現地で調査を実施した中東工科大学社会学・心理学学科、ハジェテペ大学社会福祉学部の教員にもインタビューを行った。また、この時点での私の関心は、地震で身寄りをなくした社会的弱者、とりわけ子供の保護の問題であったため、調査地の児童養護施設を訪問し、施設長やソーシャルワーカーへのインタビューを行った。
 翌2004年の調査では、調査対象を二つの住宅再建運動NGOの活動に絞った。主なインフォーマントは、それぞれの代表者であったが、前年の調査で知り合ったスタッフや住民にも引き続きインタビューを行った。
 二回の調査の後、まとまった調査の機会はなかったが、イスタンブールに出張した際や一年間のイスタンブールでの在外研究の間に、週末を利用して現地を何度か訪問し、活動の進展状況について話を聞く機会をもつことができた。
  • デュズジェの復興住宅

調査結果

 マルマラ地震被災地で住宅再建を目指したNGOが一定の成果をあげることができたのは、何よりもメンバーが権利意識をもち、能動的に運動に参加したことによっていた。そしてこれは、理事長ら幹部が、メンバーと辛抱強く話し合いを重ねることによって、可能となった。つい最近まで団体活動が国の強力な統制のもとにおかれてきたトルコでは、国に自らの権利を主張することは、ともすれば反体制的な行為だと見られかねず、多くの被災者にとっては馴染みのないものだった。トルコでは、社会的弱者が組織化し生活上の必要性を満たすために政府に訴えるという構図は、これがはじめてではなく、1990年代以前にもあった。その典型は、都市のスクウォッター住民が、占拠地の利用の合法化や道路建設・水道など公共サービスの提供を求めて、役所や政党と交渉する、あるいは場合によっては実力行使によって要求を通す、というものである。ただし、スクウォッター住民の運動が、しばしば「父なる国家」への嘆願という形をとってきたのにたいして、彼らの運動は社会国家(福祉国家)が保障する社会権の実現を要求するもので、両者の権利意識のあり方は同じではない。
 運動への参加と成功の経験は、メンバーの大きな自信につながったが、これはとりわけ運動の主に担ってきた女性にとって重要だった。女性の運動への参加は、彼女たちのセクシュアリティを保護するという名目で制限されつつ、一方で、女性は家庭的な存在と見なされることから正当化された。既存のジェンダー規範によって、彼女たちの運動への参加の仕方は規定されてきたといえる。だが、そのようなジェンダー規範による線引きは、彼女たちが新たな経験を積み重ねる過程で交渉の対象となり、ゆっくりとではあっても位置を変化させつつあるように思われる。
  • 閑散とした仮設住宅