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集落移転と土地権

1998年アイタペ津波災害被災地復興への課題

災害の概要

 1998年7月17日現地時間の18時49分に、パプアニューギニアのサンダウン州シサノ・ラグーン(Sissano Lagoon)沖約50kmを震源とするマグニチュード7.0の地震が発生。19時2分、19時6分、19時9分、19時10分に余震。
 本震の後、マロール(Malol)村からシサノ村にかけての一帯で、人びとは雷鳴のような音を聞いている。さらにその2、3分から5分後の間に轟音が聞こえた。その音源を求めて海岸へやってきた時、海水は沖合に引いており、まもなくして沖で海面が持ち上がり、次第に大きくなりながら急速に近づいてくるのに人びとは気がついた。
 逃げ惑う人びとのほとんどが、その波に飲み込まれてしまった。波に揉まれながらラグーンの内陸側のマングローブ林まで運ばれ、多くの者が命を落とした。生き残った人びとも海水を飲み、切傷・刺傷・擦過傷・打撲傷を負った。被災地へ最初の救援がやってきたのは、災害から16時間経過した翌日の昼近くになってからであった。それまでの間、被災地では住民同士が夜を徹して、カヌーやボートを使って生存者の発見と救出活動をおこなった。
 国際津波調査団(International Tsunami Survey Team)の推定では、シサノ・ラグーン一帯を襲った津波は、高さ平均10m、局所的には15mを超え、流水速度は秒速10~15mであった。アーノルド(Arnold)川によって運ばれた大量の土砂が害虫に柔らかな堆積層を形成し、これが地震によってニューギニア海溝(水深約4,000m)に向かって海底地滑りを起こし、その質量の移動により地震規模からの予測以上の津波を発生させたと津波の専門家たちは考えている。
 アイタペ津波の被害域は、シサノ・ラグーンを中心として沿岸30km、内陸へ1.5kmの範囲に及び、死者・行方不明者約2,200名、重傷者約1,000名、約1万人が住宅を失った。

被災地の概要

 アイタペはサンダウン州アイタペ行政区の政治・経済の中心地である。人口は約4,500人で、町には行政機関、銀行、郵便局、スーパーマーケットなどがある。州都のヴァニモ(Vanimo)、東セピック州都のウェワク(Wewak)とは、定期便の航空路で結ばれている。アイタペ・ウェワク間には道路があり、乗合自動車(PMV=Public Motor Vehicle)が運行されている。アイタペ・ヴァニモ間の道路は、四輪駆動車により乾季には往来が可能であるが、10月から3月頃の雨季には、道はぬかるみ、橋のない増水した河川の渡渉は困難となる。
 シサノ・ラグーンはアイタペの西方に位置し、面積約30km2、水深1~4mの汽水湖である。マロールはアイタペの約16km西にあり、陸路で結ばれていた。アロップ(Arop)、ワラプ(Warapu)、シサノ(Sissano)の村々は、海とラグーンの間に形成された砂嘴上にあった。シサノ・ラグーン地域からアイタペに行く場合は、エンジン付きボートで海路を取るのが一般的であった。ラグーンの出入り口とアイタペ間は約1時間、ヴァニモまでは3時間から4時間かかった。マロールからシサノまでの集落には約1万2千人が暮らしていた。
  • 地図1

  • 地図2

暮らし
 シサノ・ラグーン一帯の住民は、主に漁業と畑作によって生計を立てていた。海とラグーンに挟まれた砂嘴上に形成されたアロップ村、ワラプ村、シサノ村では、ラグーンの内陸側のいくつかの川を少し遡ったところに畑を作っていた。マロール村でも、畑は海岸線から2~3キロメートル離れた後背地にあった。畑ではタロイモ、キャッサバ、バナナ、サトウキビ、葉野菜、パパイヤなどと共に換金作物としてのカカオを栽培し、その他にも淡水の湿地帯に育つサゴヤシから採取する澱粉(サゴデンプン)や、狩猟によるブタや鳥類も重要な食糧であった。
  • サゴヤシからデンプンを
    取り出す

 ラグーン内では、仕掛網、カヌーを用いての釣漁あるいは集団での追い込み漁をおこない、海では安定性のある小型のアウトリガー・カヌーによる釣漁をおこなっていた。また、マングローブに多く生息する貝や蟹も重要な食糧である。
 各クランは固有のトーテムとタブーを持ち、男性の成人儀礼では、所属するクランに関わる知識が教授される。婚姻は、このクラン間での女性の交換と認識されている。夫の所属するクランの土地に居住することが原則であるが、何らかの理由で妻のクランあるいは母親のクランに庇護を求めて移動したり、クラン間での交換婚が成立するまでのあいだ、妻方居住するケースも稀ではなく、交換婚成立後もそのまま妻のクランの土地に住み続ける場合もある。クランの土地での住宅建造や畑の開墾、狩猟などの権利は、その成員のみに厳格に限定されているわけでは決してない。また、土地の境界もさほど明確に引かれているわけでもない。
  • ラグーンでの追い込み漁

言語集団と移動の歴史
 マロール、アロップ、シサノの各村では、オーストロネシア語に分類されるエスノ(Essno)語が話され、ワラプ村ではパプア語のひとつスコ(Sko ,Skou)語が使われていた。ワラプ住民は、自分たちの祖先は現在のインドネシア側からの移民であり、元来「海の民」であることを強調する。エスノ語とスコ語をそれぞれ母語とする人々の間では、他方の言語を話すことができない場合、共通語のピジン語を使用するのが一般的である。
 スコ語を話す人びとのあいだでは、彼らの祖先は今から約300年前にインドネシア領西パプアから現在の国境東側の町ウトゥン付近に移住し、さらに東進し、1850年代にシサノ・ラグーン地域に移ってきた、と伝えられている。ただし、当時はまだラグーンは形成されてはおらず、彼らはシサノとアロップの間に河口があった、川の中洲に集落を形成した。
 この地域は、1907年11月に発生した地震により、地盤が徐々に沈下し始め、スコ語を話す人びとが住んでいた中州は水没し、約2,000人の住民は内陸へ移動した。現在のポウ、ラモ、スモは、この時に移動した人びとが内陸に留まって形成した村々である。この1907年の地震の時には、海岸にあったアロップ村の住民も内陸へ避難した。余震は2ヶ月間続いた。アロップの村があった砂嘴は、地盤沈下と翌年にかけてのモンスーン・シーズン中の波による浸食で、土地面積の3分の2を失ってしまった。
 中州からラモに避難した人びとの中には、1930年頃にラグーンに通じる川の畔の一角に再移住したグループがあった。ここをアロポロ(Aroporo)と呼ぶ。しかし、第2次世界大戦中、ニューギニア島北岸で連合軍と日本軍が戦闘を繰り広げるようになると、彼らは再び内陸に入っていった。
 戦火が収束した1944年頃に、彼らはラグーンの西側砂嘴に新たにワラプ村を築いた。アロップの住民も、戦争終了後に東側砂嘴上の旧村に戻った。これら二つの村の住民は、1998年の津波災害に遭うまで、それぞれの土地に住み続けていた。
  • 1907年の地震で
    浸水した集落

調査テーマ

 パプアニューギニアでは、政府などの公的機関や外国人に譲渡たれた土地以外の、全国土の97パーセントの所有権は個人ではなく、出自・居住・共同活動への参加などに基づいた集団所有となっている。そして土地の所有権は集団間で移ったり、集団の分裂やそれに伴う移住によって所有権そのものが曖昧であったりする。
 現在のように石油や鉱物、木材などの天然資源開発や観光開発のプロジェクトが盛んになる以前から、土地をめぐる紛争はパプアニューギニア各地で頻発していた。しかし、こうした開発が進む地域では、プロジェクトが「慣習的土地所有者」に多くの利益をもたらすことが広く認識されるようになり、それまで無料で貸してきた土地に対して、借地料や賠償金を請求するケースが多発している。
 アイタペ津波災害発生当初より、災害発生から復興へのプロセスの中で、避難所の設置、公共施設の移転、集落移転などに関係し、土地の所有権をめぐっての問題の浮上が懸念されていた。被災地の人びとの置かれた状況は刻一刻と変化し、ニーズも変わっていく。行政やカトリック教会などは、それらへの迅速な対応に追われる一方、長期的な復興計画の策定にも従事しなければならなかった。土地をめぐる問題にも、歴史的経緯を踏まえて対処する必要はあったが、土地台帳も存在しないため、人びとの記憶や解釈に頼っても問題をより複雑にする一方である。
 被災地における緊急対応期から復興期までに生じた土地をめぐる課題とさまざまな立場からの対応について追ってみた。

調査方法

 1998年7月17日にアイタペ津波災害が発生したとき、インフラがほとんど整備されていない地域での災害から、どのように被災者は生活を再建し、地域社会は変化していくのかを調べて欲しいとの依頼が私にあった。始まったばかりの科学技術振興調整費による多国間型共同研究「アジア・太平洋地域に適した地震・津波災害軽減技術の開発とその体系化に関する研究(略称:EqTAP)」(研究代表:防災科学技術研究所・地震防災フロンティア研究センター長・亀田弘行[当時])からの依頼であった。
 当初は防災の専門家と共にアイタペに宿泊し、ボートや自動車で被災地域に入って調査をしていた。学校や医療施設、道路の再建計画が確定されず、人びとも再定住地を決定しかねている頃であり、人びとの生活全般について現状把握に努めた。2001年にヴァニモに派遣されていた青年海外協力隊員の紹介で、アロップ出身でサンダウン州教育局に務める人物と知り合い、その年からは、アロップ2の集落住民が内陸に移住して築いたワウロイン集落に滞在し、調査を実施するようになった。平均2週間程度、民家に泊めてもらい、そこから他の集落をも訪ねて調査をするという形態をほぼ毎年続けてきた。
  • 滞在先の家族と

 2002年からは、パプアニューギニア国立博物館をカウンターパートとして、日本でのJICAの博物館学研修コースに参加したマイケル・キソムボ氏と共同調査をするようになった。人道支援のあり方をめぐる問題や、復興支援策として導入されたバニラ栽培へ人びとが寄せる期待と挫折などが具体的に見えてきたのと同時に、それらが土地権となんらかの関係にあることが次第にわかってきた。センシティブな部分もあり、現状を明らかにしようとすることが、かえって新たな火種となってしまうことに配慮しながら、現地調査を継続している。
  • マイケル・キソムボ氏

調査結果

 アイタペ津波災害後、パプアニューギニア大学地質学教室が実施したワラプ村の2カ所でのボーリング調査の結果、この地域はおよそ900年前と400年前に大規模な津波に襲われていることが判明した。太平洋プレートがオーストラリア・プレートの下に沈み込む南側にニューギニア島は位置し、北岸では大きな河川の河口から沖に向かって、その河川によって運ばれた土砂が海底に堆積している。今回の津波災害のように、地震が海底地滑りを引き起こし、それによって増幅した津波が沿岸を来襲したことが過去にはなかったとは言いきれない。そして、地質調査によって確認しうる以上の回数の津波がこれまでに発生し、そのたびに住民は内陸に避難し、やがて沿岸に戻るということを繰り返してきた可能性は十分あり得よう。今から14世代前に発生した大津波によって、多くの死者が出たとの口頭伝承と、その時に内陸山間部のルミ(Lumi)まで運ばれていき、後に再び沿岸部の村に持ち帰ったという櫂がアロップ2(ワウロイン)の集落に存在する。長い歴史の中で見れば、津波災害の頻発地帯であると言える。
 アイタペ津波災害後、災害管理局(National Disaster Management Office)は、神戸にあるアジア防災センターとパプアニューギニア大学地質学教室の協力を得て、英語版とピジン語版の津波防災ポスターを制作し、津波災害の危険性が高い北岸一帯と島嶼部の集落に配布した。そのポスターには、海岸から800メートル以上離れているか、小高い場所ならば、津波が発生しても安全と記されている。
 800メートルというと、シサノ・ラグーンの砂嘴のもっとも幅があるところよりもさらに長い。すなわち、砂嘴上に住めば、津波に対する安全性は保障されないことになる。災害直後には、沿岸の被災者は内陸や小高い丘に避難し、再定住地としてそこに建設された集落には、小学校や医療施設が再建された。子供の学校教育や保健医療サービスの必要性を認め、そのための再定住地が持つ利便性と安全性が、砂嘴上に住むことの利点よりも優ると住民が考える限りは、彼らは内陸や高台に住み続け、結果として津波災害に対する脆弱性は減じられると言えよう。しかし、住宅の建設、畑の開墾に伴い発生する地主からの借地料や賠償金の支払い要求、活動への制限などの問題や、復興と共に地域の経済的発展を促進するものとして導入されたバニラ栽培の失敗など、再定住地から人びとを追い、再び砂嘴上に住むことに向かわせる要因は複数存在し、すでにシサノ村の一部ではほとんどの住民が戻っている例すらある。単に防災の観点のみから、生活のあり方を決定し実行できないところに、防災の難しさがある。とりわけ「慣習的土地所有」をどのような観点から捉え、対処するかの重要性は高い。同時に、災害後にワラプからバルプに移住した人びとのように、土地を持たないがために不利に条件づけられた人びとがいることも、防災を含めた開発・発展を考える際に無視はできない。
  • 防災ポスター