お使いのブラウザは古いバージョンのインターネットエクスプローラーです。レイアウトを簡略版に切り替えて対応しています。

インド洋津波被災地バンダ・アチェにおける土地問題

はじめに

 本研究は、2008年度より、インド洋津波被災地の一つであるバンダ・アチェのウレレ村を調査地として行われている。災害後に生じた地元政府と住民の間の土地所有権に関する問題と住民の土地との紐帯に関して考察しようとするものである。この村に起きている土地所有をめぐる問題とそれに続く復興住宅取得に関する問題は、法の解釈や選択の問題や、人々が捉える国民と国や政府の関係、彼らの戦略など様々な問題を照らし出す。

津波被災とウレレ

 2004年12月26日に起きたインド洋津波は、インド洋沿岸の様々な地域に甚大な被害を及ぼした。インドネシアだけでも、死者・行方不明者数は、122,361名(UN/OCHA 2005a)、アチェ州では、113,306名(UN/OCHA 2005b)であった。また、アチェ州での全壊家屋数は、69,932戸(BRR 2005)である。こうした深刻な被害をもたらした津波は、インドネシア政府とGAM(自由アチェ運動)の間の戦闘をも終わらせた。
 本調査地であるウレレ村は、インド洋に面していることから、特に深刻な被害を受けた地域である。当時の村長の死亡や記録の流失から、正確な死者・行方不明者数は不明であるものの、村民によれば、生存者は人口の七分の一から八分の一しかいない(この生存者の中には、海に出ていて助かった漁業従事者たちも含まれる)。被害の深刻さから、様々な援助機関がこの地域の復興に携わり、このため、被災から3年ほどで、ほぼ復興が終わったものとして、地元政府に言われていた。しかし、実際には、土地所有に関する政府と住民間の紛争やそれが原因で滞っていた賠償金未払い問題、そして、リロケーション先あるいは復興住宅を得ていない人々が被災後5年経っても存在するという問題を抱える地域である。こうした問題は、国民の権利や生活保障の問題として浮かび上がり、当事者である住民たちにとっては、国のあり方を問う問題ともなっている。

土地と住居に関わる二つの問題

 津波以前、ウレレ村のインド洋に面した二つの集落には、建物がひしめき合っていた。ここには、港と共に政府の建物や寮、それに、一般の人々の住居があった。しかし、津波により、この集落は壊滅的な打撃を被った。家々は瓦礫となり、集落の一部は海中に没してしまった。
 被災後、まもなくして、諸外国や援助機関の援助のもと、政府は、二つの集落のあった土地に、津波以前の様に、政府の建物や寮を建てた。また、道路を拡張・整備したり、観光施設を建設したりした。一方、津波以前、この土地に住んでいた人々は、この土地が、「危険地域」として一般人の住居建設が禁止されたことを知る。政府は、また、彼らの内の多くの者に対して、津波前の土地所有権を認めなかった。道路や観光施設建設に当てられた土地に災害前居住していた人々の一部のみに、賠償金が支払われ、他の人々には支払われなかったのである。
 住民側は、アダット(慣習法)に基づいた所有権を持つと主張し、たとえば、土地に対する税の領収書など様々な土地所有の証拠を集め始めた。また、アチェや外国のマスメディアを通して、この土地問題を訴えた。
 もともと、この二つの集落に住む人々の多くは、他からこの地域に来た人々で、村長に土地を使用する許可を得て家を建て住み始めた人たちであった。津波前、土地証書を既に入手していた人たちもいれば、そのうち土地証書が出るはずだったと主張する人たちもいる。彼らの主張は、村長の許可を得た上で、20年以上に渡って善良に当該の土地を使用してきたのであるし、土地に対する税金を払ってきたのであるから、この土地は自分たちの所有であるということであった。
 彼らは、こうしたアダット土地所有権を持つ者で、賠償金を受け取っていない人々のリストを作り、区役所や市役所などとたびたび交渉していた。彼らに協力する弁護士は、住民側の所有権の根拠を、インドネシアの法に求めた。しかし、両者とも、土地が国や国民のものであり、政府のものではないと主張している。
 この賠償金問題は、人々が長きに渡って土地を守ってきたという理由で、住民たちの所有権は認めないながらも、政府が賠償金を支払うことでひと段落している。しかし、一方で、賠償金額を不服とする人々もいて、その人たちは、賠償金を受け取っていないし、100人あまりが土地所有権を主張し続け、政府は彼らと裁判で争っている。そして、彼らとウレレの土地との紐帯は、様々な形で継続して社会に出てくるのである。
  • 津波前の土地所有を証明するために住民たちが集めた資料の一部。

 さて、問題の集落は、リロケーション対象地であった。しかし、津波後5年経った2010年、この二つの集落の住民たち206世帯が未だ復興住宅を得ていないし、リロケーションもされていない。役所側によれば、彼らのリロケーション先は既に決まっていたが、住民たちは山側へのリロケーションに応じず、結果として、彼らに当初割り当てられていた住居は、他の人たちが住むことになったのだという。確かに、集落の人々の中には、漁業従事者であることを理由に、山を切り開いて建設した復興住宅地への移住を問題としている者もいるし、山側の土地に既に移り住んだ人々が漁業のために、村に戻ってきてしまっているという問題もある。こうした形で、人々とウレレの土地との関係は表れる。また、中には、今は危険地域として住居建設が禁止されているものの自分たちの土地なのだから、そこに小屋を建てて住むということを口にする者もいる。リロケーション先を得ず、賠償金も得ていない人々にとって、自分の土地は、ウレレにしかないのである。
 こうした人々と土地との結びつきにも関わらず、現在では、立地に関わらず復興住宅を得たいと望んでいる人も少なくない少なくない。ほとんどの援助機関がアチェを去った今、復興住宅を得ることがだんだんむずかしくなっているのではないかという思いから、不安が焦りに変わって来ているのである。
  • 「津波から5年後も、未だ仮設住宅に住んでいます」という看板がかかった仮設住宅。

 そして、土地や復興住宅取得の問題を巡って、住民たちが行っているのは、法律家に援助を求めることである。彼らの援助を通して、人々は、政府側と土地や住居について交渉するのである。一連の交渉の過程で、人々は、法に対する理解を深め、法自体は、利にかなったものであり、国民のためのものであると考えるようになっている。時には、それは、(イスラム教の)神からあたえられたものとして表現される。こうした法がありながら、何故、インドネシア国民たる彼らは、今の状況に置かれているのか。土地や住居に関する問題と人々を取り巻く状況は、住民たちに国のあり方を考えさせ、様々なコメントを生じせしめてもいる。

今後の課題

 上記の問題は、現在進行形で続いている問題であり、住民たちは、粘り強く政府と交渉して、自分たちの利益と権利を実現しようとしている。今後、これらの問題が、如何なる形に進展するのかに注目していくとともに、人々が論じる政府や国のあり方、その位置づけについて、更に追求していきたいと考える。

引用文献
BRR
 2005 Aceh and Nias One Year After Tsunami. Banda Aceh: BRR.
UN/OCHA
 2005a OCHA Field Situation Report No. 15.. Jan. 9, 2005. Electric document,
http://www.undp.org/cpr/disred/documents/tsunami/ocha/sitrep15.pdf, accessed on November 7, 2008.
 2005b OCHA Situation Report No.19. Jan. 18th, 2005. Electric document,
http://www.undp.org/cpr/disred/documents/tsunami/ocha/sitrep19.pdf, accessed on November 7, 2008.
  • ウレレの観光客用施設に建てられた土地所有を示す看板。