National Museum of Ethnology, Osaka, Japan
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Scan of first page of Brown's autobiography.
Scan of cover page of Brown's autobiography.

ジョージ・ブラウン自叙伝

George Brown, D.D. Pioneer-Missionary and Explorer

目次

幼少期 / 父―有能な人格者/ 父―篤い信仰心/ 学生の頃/ 危険な仕事 / 海へ 1 / 海へ 2 / 海へ 3 / 新大陸への航海 / 第一歩 / 五大湖 / 帰国 / 危機一髪 / ニュージーランドへの航海 / オークランド / 天職を求めて / 宣教師としての適性 / ふさわしい伴侶 / 泥まみれのハネムーン / 最悪の一夜 / 悲劇の宣教師 / シドニーからサモアへ


危険な仕事< 海へ 1>  海へ 2

 私の中で海に出たいという願望が膨らんでいったのは、こうした生活に影響されての ことではないかと思う。ともかく、私は航海への強い憧れに勝てなくなり、ついに実行に移すことに決めた。ただ、少し問題があった。私は正式な奉公契約を結 んでいたので、勝手にここを逃げ出せば捕まえられて、連れ戻される恐れがあった。また、悲しいことに、私は全くと言ってよいほど金に余裕が無かった。しか し、1851年のクリスマスに、計画を実行することに決めた私は雇い主と一緒にハートリプールを出発した。彼は、私が家族の元を訪ねに行くのだと信じてい た。恐らく、私が戻らないと知って彼はとても驚いたと思う。それだけでなく、私に腹を立ててもいたはずだ。ロンドンまでの交通費として10シリングを彼か ら借りていたし、出発の際には、朝早くに私を呼びに来てもらったりしたからだ。私はニューカッスルから、シティ・オブ・ハンブルグ号の三等船室でロンドン に向かった。その途中で、その後何年も語り草になるような強風に遭遇し、沈没の危険にさらされた。実際、すぐ近くで、少なくとも6隻の船が乗員全員を乗せ たまま沈んだらしい。しかし、天候の回復を待って、私の乗った船は何とかローストフト・ロードまで引き返すことができた。大量に浮かぶ船の残骸を横目に見 ながら、ロンドンへの船旅は続いた。ロンドンには無事に到着したが、私には金が無く、財産といえばハートリプールを発ったときに着ていた服だけだった。 二、三日は、船旅の途中で知り合いになった、ニューカッスルの男たちと共に船上で過ごした。来る日も来る日も、私は仕事を探した。しかし、服装を見れば、 私が海に出たことがないことは一目瞭然だったようで、わざわざ新入りを育ててやろうという雇い主はなかなか現れなかった。

 ところ が、ある日私は、どんな特技があるかと尋ねてくれた船長に出会った。ただその船長は、私が披露した職歴にはさほど興味を示してくれなかった。そして、彼が 料理はできるかと尋ねた時、私はやけになって「はい」と答えてしまった。「よし分かった。採用だ」と船長は言い、私はペンザンスの新型スクーナー船サベー ジ号に乗り込むこととなった。サベージ号は当時、アゾレス諸島から果物を運んでいたクリッパー・スクーナー船の1隻だった。その夜、私が担当した夕食のこ とはよく覚えている。ローストビーフ、キャベツ、ポテト。私は、全部を一緒くたにして鍋に放り込んだ。しかしすぐに、キャベツはビーフよりだいぶ前に出来 上がってしまったことに気が付いた。仕方がないのでキャベツを取り出し、鍋の側でビーフに火が通るまで待ち、あらためてキャベツを放り込んで温めた。しか しこれではキャベツはおいしくならず、船長と船員たちは、まずいキャベツを売った八百屋に対して腹を立てていた。次の日は、少しはましな料理を作ることが できた。八百屋は船長の信頼を回復することができたのである。土曜日の夕方、船長から日曜日の夕食について指示があった。「おい、明日の夕食にはうまいプ ラム・ダフ(干しぶどう入りプディング)を作ってくれ」。「分かりました、船長」と私は答えたものの、プラム・ダフをどうやって作るのかという問題に直面 した。そこで、私は土曜日の夜に逃げ出した。みんなが日曜の夕食に何を食べたのか私は知らない。


幼少期 / 父―有能な人格者/ 父―篤い信仰心/ 学生の頃/ 危険な仕事 / 海へ 1 / 海へ 2 / 海へ 3 / 新大陸への航海 / 第一歩 / 五大湖 / 帰国 / 危機一髪 / ニュージーランドへの航海 / オークランド / 天職を求めて / 宣教師としての適性 / ふさわしい伴侶 / 泥まみれのハネムーン / 最悪の一夜 / 悲劇の宣教師 / シドニーからサモアへ /
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